詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(12)

2007-01-02 23:04:14 | 詩集
 現代詩文庫126 「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
 「くりかえし」ということばに出会った瞬間、私は「円き広場」を思い出した。広場を中心に放射状に広がる道。そこから清岡は「遠心求心」ということばを広場を通るのは1度ではない。繰り返すことによって「遠心求心」が明確になる。「円き広場」には「くりええし」ということばは出てこないが、意識の内部では「くりかえし」がおこなわれているのである。だからこそ、その2連目には「意識」ということばが出てくる。

ふるさとの子 二十歳(はたち)
幼き日よりの広場に
はじめて眩暈(めまい)し 佇む
意識の円き核の
かくも劇的なる
膨張(ふくらみ)と同時の収縮(ちぢまり)を
かつて詩にも 音楽にも
恋にも 絶えて知らざりき

 清岡自身の肉体が放射状に伸びた道と広場を行き来するのではない。清岡の「意識」が行き来し、その意識の中で膨張と収縮、遠心と求心が同時におこなわれる。

 また、この「遠心求心」の発見には、意識とは別の「くりかえし」も隠されている。

ふるさとの子 二十歳
幼き日よりの広場に
はじめて眩暈し 佇む

 清岡は幼い日からその広場を知っていた。しかし二十歳になりはじめてそれがどんなに劇的なものであるかを知った。くりかえし、その広場を、そして放射状の道を歩いただろう。その肉体の記憶が二十歳の日に突然意識を覚醒させた。
 ただし、その覚醒は単純な覚醒ではない。「眩暈」をともなった覚醒である。一種の混乱とさえ言えるかもしれない。混乱--つまり、それは、論理的な言語として定着していない精神の状態である。そこから何かが生まれてくるのだが、それがどんな形になるかは、まだわからない。わからないまま、魅了され、眩暈し、「佇む」。そう、佇んで、つまり、何もしないで、その混乱・混沌のなかから何かが生成してくるのを、清岡は目撃するのである。そして、その目撃をただ語るのである。清岡が発見したのではなく、清岡を超えるだれかが発見したものを語るように……。

 意識と無意識が、ここでは区別がつかない。区別がない。それは分離して存在するのではなく、融合して存在している。
 --これは、まさしく「夢」の状態である。

 「夢」を語った作品のなかに出てくる「くりかえし」は、清岡の詩の「と」と深く結びついているのである。
 「と」によってつくりだされる「円き広場」と放射状の道を清岡のこころ、ことばは何度も何度もくりかえし往復することで、遠心求心を硬く結びついたものにする。そして「詩」になるのだ。

コメント
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