大岡信「鯨の会話体」、谷川俊太郎「二×十」(「現代詩手帖」2007年01月号)。
大岡はカナダの詩人のことばと向き合っている。
カナダ人のことばと向き合ったとき、最初に「国境」ということばが登場し、つづいて「否定されるために/存在するのだ」とつづけられる。「国境」は次の連で「人工の壁」に「否定される」は「消えてしまふ」に置き換えられ、別の存在が登場する。「あるのは/軽やかに 移動していく/地平線だけ」。
この意味の対比は私には急激な感じがする。「国境」はもちろん人間のつくった人工的なものであり、クジラの会話と人間の会話という区切りも人間のつくった人工的な存在であり、自然全体の中では無意味なものだろう。そういう意識からことばは動いていくのだろうが、何かを言い急いでいる感じがする。どうしてだろう。
最後の連の2行で印象が変わる。
「クジラ」は意味論的には渡り鳥を追って泳ぐ。しかし、このクジラは海を泳いでいるクジラではなく、いま、銀座の雑踏を泳いでいる(?)大岡とカナダの詩人の姿に思えるのだ。
「国境は」から始まる4連、5連はかぎ括弧のなかには入っていないが、ほんとうは大岡のことばなのではないのか。カナダの詩人のことばに対して発せられたことばではないのか。
二人は会話しながら銀座を歩いてる。カナダ人のことばに刺激されて、大岡の詩心が急に動いた。その急な動きをそのまま書いたのが4、5連ではないのか。詩心が発したもの、つまり詩であるから、論理的である必要はない。飛躍が多くてもいい。そして、それが最初から詩を書こうとしてたくまれたものではないから、熟考とか推敲とかとは無縁である。そのことばは、なげつけられたことばに反応して動くだけである。大岡の内部からふいにあらわれてくることばをただその動きのままに大岡は拾い上げている。--ここでは、大岡はカナダの詩人と即興の「連詩」をやっているのである。即興ゆえに「急いだ感じ」が残るが、同時に、即興ゆえの、跡をふりかえらない楽しみもある。
カナダの詩人は詩を意識しないで会話をはじめたかもしれない。しかし、大岡はそれに詩を感じて、詩のことばをぶつけた。そして、そこから「会話」がはじまった。クジラの会話のように、コンピューターには追いつけない飛躍のある会話、スピードのある会話、しかしのどかな(現実の喧騒とかけはなれた?)会話に……。
二人はクジラになろうとしているのだ。あるいはクジラと渡り鳥になろうとしているのだ。
カナダ人の発したクジラの話題を追いかけ、国境も忘れ(カナダ人であること、日本人であること、国籍を忘れ)、国籍を否定し、ただ軽やかに前へ前へと広がる詩の地平線を追いかけ、移動していく。
「クジラの会話体」はこのときから「詩」になる。大岡とカナダ人によって共有される「詩」になり、ふたりの共有によって、また読者に共有されるものにもかわる。
*
大岡はカナダの詩人と「連詩」を銀座の雑踏の中で楽しんだが、谷川はひとりで「連詩」を試みている。登場する谷川は2人か、3人か、またはそれ以上か。それはよくわからないが、先行する2行を引き受け、次の谷川に渡すことをこころがけて、どこか「開いた」状態を残した行がつづく。
テーマは「詩」、あるいは「詩のことば」なのだが、4連目が印象深い。
「降り積もっていく」という断定でもなければ、「降り積もっていくだろうか」という疑問でもない。断定でも次の連へはつづくし、疑問でも次の連へとつづく。どんなことばであっても連詩は可能である。しかし、谷川はあえて「降り積もっていく(だろうか)」と書いている。むりやり「違和感」をつくりだしている。行をこじあけている。
そして、この操作が、詩をつきうごかしている。5連目。
この「笑う」は高らかな笑い、開放的な笑いではないけれど、1連2行目の「物憂げ」な雰囲気を一瞬否定する。否定することで、次の連からのことばのスピードを加速する働きをしている。
こんな感想が感想として成り立つかどうかわからないまま書いているのだが……。
谷川の4連目の(だろうか)は大岡の詩に登場してきた「渡り鳥」のような印象がある。同じことを考えているのだけれど、どうしてもそこに入り込んでしまう異質なもの(他人の発想)が「会話」ではしょっちゅうある。そのために会話はとんでもないところへ流れて行ってしまったりするのだが、そういう異質なものによる「会話」あるいは「連詩」のこじ開け、風通し穴のようなものが(だろうか)にはある。
(だろうか)が、ひとりで仕組んだ「連詩」を輝かせている。(だろうか)によって谷川は、ひとりであることから完全に2人であること、あるいは3人であることへと一気に飛躍して、「連詩」をつきうごかしている。
大岡はカナダの詩人のことばと向き合っている。
「五十キロぐらいの距離なら
クジラたちはのんびりと会話しながら
大洋を泳ぎまはつてゐるんだぜ」
ぶあつい海洋動物アンソロジーを編んだ
カナダのひげもじやの詩人が言つた
隣り同士の声さへも
きれぎれにしか聞こえない
東京銀座の雑踏の中で
「コンピューターと人類は
いつになつたら追ひつけるのかね
クジラののどかな会話体にさ?」
国境は否定されるためにのみ
存在するのだ
人工の壁は消えてしまふが
渡り鳥にあるのは つねに
軽やかに 移動してゆく
地平線だけ
クジラもあとを追つて泳ぐ
ゆつくりと会話しながら。
カナダ人のことばと向き合ったとき、最初に「国境」ということばが登場し、つづいて「否定されるために/存在するのだ」とつづけられる。「国境」は次の連で「人工の壁」に「否定される」は「消えてしまふ」に置き換えられ、別の存在が登場する。「あるのは/軽やかに 移動していく/地平線だけ」。
この意味の対比は私には急激な感じがする。「国境」はもちろん人間のつくった人工的なものであり、クジラの会話と人間の会話という区切りも人間のつくった人工的な存在であり、自然全体の中では無意味なものだろう。そういう意識からことばは動いていくのだろうが、何かを言い急いでいる感じがする。どうしてだろう。
最後の連の2行で印象が変わる。
「クジラ」は意味論的には渡り鳥を追って泳ぐ。しかし、このクジラは海を泳いでいるクジラではなく、いま、銀座の雑踏を泳いでいる(?)大岡とカナダの詩人の姿に思えるのだ。
「国境は」から始まる4連、5連はかぎ括弧のなかには入っていないが、ほんとうは大岡のことばなのではないのか。カナダの詩人のことばに対して発せられたことばではないのか。
二人は会話しながら銀座を歩いてる。カナダ人のことばに刺激されて、大岡の詩心が急に動いた。その急な動きをそのまま書いたのが4、5連ではないのか。詩心が発したもの、つまり詩であるから、論理的である必要はない。飛躍が多くてもいい。そして、それが最初から詩を書こうとしてたくまれたものではないから、熟考とか推敲とかとは無縁である。そのことばは、なげつけられたことばに反応して動くだけである。大岡の内部からふいにあらわれてくることばをただその動きのままに大岡は拾い上げている。--ここでは、大岡はカナダの詩人と即興の「連詩」をやっているのである。即興ゆえに「急いだ感じ」が残るが、同時に、即興ゆえの、跡をふりかえらない楽しみもある。
カナダの詩人は詩を意識しないで会話をはじめたかもしれない。しかし、大岡はそれに詩を感じて、詩のことばをぶつけた。そして、そこから「会話」がはじまった。クジラの会話のように、コンピューターには追いつけない飛躍のある会話、スピードのある会話、しかしのどかな(現実の喧騒とかけはなれた?)会話に……。
二人はクジラになろうとしているのだ。あるいはクジラと渡り鳥になろうとしているのだ。
カナダ人の発したクジラの話題を追いかけ、国境も忘れ(カナダ人であること、日本人であること、国籍を忘れ)、国籍を否定し、ただ軽やかに前へ前へと広がる詩の地平線を追いかけ、移動していく。
「クジラの会話体」はこのときから「詩」になる。大岡とカナダ人によって共有される「詩」になり、ふたりの共有によって、また読者に共有されるものにもかわる。
*
大岡はカナダの詩人と「連詩」を銀座の雑踏の中で楽しんだが、谷川はひとりで「連詩」を試みている。登場する谷川は2人か、3人か、またはそれ以上か。それはよくわからないが、先行する2行を引き受け、次の谷川に渡すことをこころがけて、どこか「開いた」状態を残した行がつづく。
テーマは「詩」、あるいは「詩のことば」なのだが、4連目が印象深い。
心の忘れ去った一瞬一瞬が
魂に降り積もっていく(だろうか)
「降り積もっていく」という断定でもなければ、「降り積もっていくだろうか」という疑問でもない。断定でも次の連へはつづくし、疑問でも次の連へとつづく。どんなことばであっても連詩は可能である。しかし、谷川はあえて「降り積もっていく(だろうか)」と書いている。むりやり「違和感」をつくりだしている。行をこじあけている。
そして、この操作が、詩をつきうごかしている。5連目。
言葉の細道を歩き疲れて
沈黙の迷路に座りこみ 笑う
この「笑う」は高らかな笑い、開放的な笑いではないけれど、1連2行目の「物憂げ」な雰囲気を一瞬否定する。否定することで、次の連からのことばのスピードを加速する働きをしている。
こんな感想が感想として成り立つかどうかわからないまま書いているのだが……。
谷川の4連目の(だろうか)は大岡の詩に登場してきた「渡り鳥」のような印象がある。同じことを考えているのだけれど、どうしてもそこに入り込んでしまう異質なもの(他人の発想)が「会話」ではしょっちゅうある。そのために会話はとんでもないところへ流れて行ってしまったりするのだが、そういう異質なものによる「会話」あるいは「連詩」のこじ開け、風通し穴のようなものが(だろうか)にはある。
(だろうか)が、ひとりで仕組んだ「連詩」を輝かせている。(だろうか)によって谷川は、ひとりであることから完全に2人であること、あるいは3人であることへと一気に飛躍して、「連詩」をつきうごかしている。