詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(18)

2007-01-30 18:16:39 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 『西へ』(1981年)の「段丘の岡」は岡鹿之助の「段丘」に寄せる詩である。清岡は岡の見たものを次のように想像している。

迫ってくる死を前に
無意識のいざないのもと
身近な日本の風景に
遠い青春のフランスの風景を
あらためて夢深く
重ねようとするために。

 日本の風景「と」フランスの風景。晩年「と」青春。遠く離れたものを結びつける「と」。それは岡にとって「絵」なのだった。「段丘」という絵は、このとき岡にとって「円き広場」そのものである。そう、清岡は想像している。
 このとき岡「と」清岡もまた、「と」によって結びつけられている。
 日本「と」フランスをただ結びつけるのではない。結びつけるというより、重ね合わせる。つまり、一体になる。しかも単に重ね合わせるのではない。「夢深く」重ねる。日本「と」フランス。その「と」の部分が「夢」であり、しかも「深い」。そこでは「夢」は深さを持って動いている。
 この「夢深く」ということばにこめられたものは、「眩暈」であり「至福」であろう。この作品のなかには「浄福」「瞑想」ということばも出てくる。
 そして、清岡は、そんなふうに岡を思い描くことで、なんと、今まで出会ったことのない岡に絵のなかで出会う。今まで見てきたかもしれないが、新たに出会い直すのである。それは新しい岡の誕生であると同時に、また新しい清岡の誕生でもある。
 この最後の連も非常に美しい。

わたしの眼はふと 空を見あげる
段丘のうえのわずかな空。
それは青く晴れている。
ほのぼのと晴れている。
驚いたことに そこで
無窮動の点描が
幻覚か
ごくわずかな赤を散らしている。
まるで 七十九歳の画家の
頬を染める羞じらいのように。

 「幻覚」は「眩暈」に通じるかもしれない。「眩暈」は「至福」であった。「至福」はときとして羞恥でもあるかもしれない。幸福であることの恥ずかしさ。そこに、なんともいえぬ生きる喜びがある。



 『幼い夢と』(1982年)は清岡と幼い息子、50歳をすぎてから誕生した幼い息子とのの交流を描いている。「一年と一瞬」は、自分の人生と息子の人生を重ね合わせ、苦悩し、焦り、そしてまた喜びかみしめる詩である。

ああ あの明るい唐楓(とうかえで)の林のなかに
二人で手をつないで入って行こう。
枝枝に溢れる黄 赤 橙の葉が
ときに 一枚二枚舞い降りてくる。
小さな翼の生えた小さな固い実も
地面のあちこちに散らばっている。
ああ なんと冴えた
なんと澄みきって 底知れぬ照明だろう。
思い出と区別のつかない 小鳥たちの歌。

 「思い出と区別のつかない」。この区別のなさが「眩暈」であり、至福である。今と過去とが融合しひとつになる。繰り返される「ああ」は清岡の声であると同時に幼い息子の声でもある。ことばになる前の、ため息としての声。その声のなかでひとつになる。清岡は、その「ああ」という声の重なり、清岡の「ああ」という声と息子の「ああ」という声のあいだに、深い夢を重ね、呼吸するのである。
 この融合を清岡は最後にもう一度別のことばで言い換えている。

ここにおまえと立てば ようやく
一年を一瞬にとらえ
一瞬を一年にひろげることができるのだ。

 幼い息子は清岡にとって「円き広場」そのものである。息子に注ぐ愛が「円き広場」である。

コメント
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