詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イ・ジュニク監督「王の男」

2007-01-04 15:11:30 | 映画
監督: イ・ジュニク 出演: カム・ウソン、イ・ジュンギ、チョン・ジニョン 

 いくつもおもしろいシーンがあるが私がひかれるのは、美男の芸人が王の前で人形芝居をしてみせるシーンである。肉声では何も語れない芸人。しかし芝居の中でなら思いのたけを繊細に語ることができる。そして、その人形芝居に王自身がのみこまれていく。王自身も人形を動かしながら芝居をする。王もまた自分自身の肉声をうまく伝えることのできない存在である。
 美男の芸人が動かす人形の繊細な動きも美しいが、その人形にとりつかれ、無邪気に人形を動かしてみる王の表情も美しい。
 王の肉声さえも殺してしまっているのは何か。「体制」である、といってしまえば簡単だが、「体制」というものは見えにくい。「体制」というのは「頭」ではことばにすっきりとおさまるが、それを具体的なことばでつたえようとするとことばにならない。
 具体的に見えるのは、肉声を伝えられない人間の苦悩である。人はみな、ことばでは正確につたえられない肉声をもっている。それを解き放つために「芝居」がある。「芝居」のなかには、それを演じる人間の肉声があると同時に、それを見る観客の肉声もある。風刺劇なら、世の中をほんとうはそんなふうにみているけれど自分自身のことばでは恐くて言えないから、役者のやっていることを笑うことで自分の声を代弁するという肉声の在り方がある。この映画は、そうした「構造」を巧みに取り入れ、劇中劇を何度もくりひろげるが、それはあくまで「ストーリー」の都合である。
 見どころは、やはり語ろうとして語れない肉体、肉声の苦しさである。
 芸人のリーダーが相方の美男の芸人にそそぐ熱い眼差し。怒りと愛。一緒に芝居をして回るときの喜び。リーダーは怒りをあらわす肉声をもっているが、悲しみをあらわす肉声をもっていない。一方、相方の美男の芸人は怒りをあらわす肉声をもっていないが悲しみをあらわす方法を知っている。(それが王の前で見せた人形芝居である)。リーダーの怒りは美男の芸人を悲しませ、美男の芸人の悲しみはリーダーの男を怒らせる。
 怒りが二人を新しい世界へひっぱり、悲しみがその世界に深みをあたえる。怒りの力で突き進み、悲しみで現実の奥へと沈み、世界がひろがる。
 この怒りと悲しみと綱の上の芝居さながら、もつれあい、もつれあうことでバランスをとっている。つまり、それがもつれあうたびに、不思議なことに、喜びが伝わってくる。苦しいはずなのに、その苦しみを共有する人間がいる、つまり、生きている、互いにほんとうはこころの底で苦しみを抱き合って通じ合っているという喜びがあふれる。

 ラストシーン。「体制」の戦いのさなか、宮廷の庭に張られた綱の上で、相方をかばって盲目になったリーダーと美男の芸人が、生まれ変わったらやはり芸人になるといって芝居をし、空中へ高くジャンプする。つなぐものは何もない。一本の綱さえない。しかし、ふたりは結ばれている。いっしょのこころ、という喜び。
 この映画は無骨な芸人と美男の芸人、美男にこころを動かす王の三角関係の恋愛劇の様相ももっているが、王が嫉妬するのは、二人の見えない綱(糸というには太すぎる)つながりであろう。支えるものが何もなくても、結びついているこころ、その喜び。
 その喜びへの高らかな讃歌をラストシーンに見た。

コメント (3)
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岡井隆「胃底部の白雲について」、平出隆「天文と雑纂」

2007-01-04 14:38:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 岡井隆「胃底部の白雲について」、平出隆「天文と雑纂」(「現代詩手帖」2007年01月号)。

 岡井の詩は不思議だ。書かれていることは、ことばは滅びる、それを意識しながら「死語の詩を書く」ということなのだが、その内容とは裏腹(?)に読んでいて楽しいのだ。意味が意味になってしまうことを音が拒んでいる、というか、音が意味を弾き飛ばして軽やかに動いていくといえばいいのだろうか。

胃の底部にしづかに白雲が沈んでゐて
今朝はその雲が話題を独占した
語られなくなつたねイラク といつて
避けられもしないイラク

世界にはなんと六七八四もの言語があるが
そのうち二週間にひとつの迅さで絶滅していくんだつてきくと心強くて
日本定型詩の文語をからかつてやりたくなるんだ
しやべり言語じやないけれどお前さん長寿だねつて

流暢にしやべれる人が一人もいなくなればその言語はおだぶつ
死のうわさはいつものやうにわたしを悦ばすがそれが言語であれ話題であれ他者であれ
そしてもうしやべられることのない死語の詩を書く
あかねさす昼にぬばたまの夜に日(け)並べて、さ

 「胃の底部にしづかに白雲が沈んでゐて」は私にはなんのことかわからない。(ここでは引用しなかった5連目の「夫婦語」に関係しているだろうと想像するのだが……。胃の違和感を「白雲が沈んでゐ」るというふうにして岡井夫婦は話すんだろうかとは想像するんだろうけれど。そして、そのときたとえば「死」というものが微妙に回避されており、その微妙に回避された問題が、夫婦の会話、あるいはここに書かれた作品を動かす隠れた推進力になっていると想像するのだけれど……。)
 ただ「し」の音、「い」の響きが印象に残る。「枕詞」のようにほんとうは意味があるのかもしれないが、意味を失ってしまって、ただ次のことばを引き出すための誘い水のように動いている。これからはじまるのは「散文」ではなく「詩」である、とつげるための序曲(音楽)のように、私には感じられる。そして、この「仕掛け」がおもしろいと思う。
 また、それぞれの行が、岡井のことばでいえば「しやべり言語」の響き、軽さを持っている。「ん」「つ」など音便の多用が意味を深刻に沈み込ませないのかもしれない。「おだぶつ」という口語とも響きあう。「のだ」とか「ね」という口語の末尾もとても自然だ。多くの詩に見られる「ね」「さ」などの口語の唐突な出現は、私には、何やら体臭(?)体温(?)の押し売りのように感じられ、思わず身を引いてしまうことがあるが、岡井の「のだ」「ね」にはそういう感じがない。「しやべり言語じやないけれどお前さん長寿だねつて」というような倒置法にも響きあう。書きことばとしての「口語」ではなく、ほんとうに「しゃべり言語」で岡井は詩を書いている。そのため、意味ではなく、岡井の肉声を聞いている、岡井の肉体を目の前に見ている感じがしてくるのである。私は岡井を見たこともないのだけれど、そういう感じが伝わってくるので、ひかれてことばを追ってしまう。詩を読んでしまう。
 そういう楽しさから、もう一度、作品そのものへ戻って……。
 「語られなくなつたイラク」。そのなかにはイラクの少数民族の問題もある。少数民族が絶滅すればもちろんその言語も絶滅する。そのことを岡井は思い出し、そこから日本定型詩(岡井自身が書いている短歌)へと連想が進む。文語へと連想が進む。
 「死のうわさはいつものやうにわたしを悦ばす」の「悦ばす」は活気づける、それも単に精神だけではなく肉体、感覚も活気づけるというような意味合いだと思う。岡井のことばから肉体を感じるせいか、「悦ばす」に、どうしても肉体の喜びを感じてしまう。はつらつとした笑いを感じてしまう。「私は、死ぬ前のことばをまだ味わいながら書くことができる」という喜び。
 それを残せ、とは岡井は言わない。「いつ滅びるかも知れんのだ」(最終行)とだけ言うのである。
 そして、その最終行、結語を読んだ瞬間、私ははっとする。ぎょっとする。ぞっとする。

胃の底部にしづかに白雲が沈んでゐて

 私にはこの第1行がわからない。「白雲」というのは「夫婦語」だから? それとも、岡井の中では生きているけれど、私の中では滅んでしまった言語によって書かれているから?
 岡井の中では生きているけれど、私(あるいは私たちの世代)の中では滅んでしまった言語、あるいは文体というものは無数にあるだろう。そして、それは岡井には見えるけれど、私には見えない。そうしたものへ向けて、岡井は、ことばを発しているかもしれない、と思うのである。
 岡井の詩の第1行が私に見えないのは、それが岡井の肉体だからである、とも思う。「意味」は頭で考える。肉体は「意味」を隠している。ことばの動き、それがことばの肉体であり、岡井の肉体は、私の肉体とは違った動きをする。私の中で滅んでしまった肉体の動きをする。私は、その名残のようなものを、かろうじて「響き」(音)のなかに感じているにすぎない。
 これから先、私のことばは、どこまで滅んでいくのだろう。それに対して私はどんなふうに向き合うことができるのだろうか。

 --これは岡井の詩とは無関係なことのようで、ほんとうは一番関係することかもしれない。詩を読むとき、問われているのは、作品のなかにあることばではなく、読んでいる私のことばなのである、と思う。



  平出の作品の2連目。

 一冊のノートが本になるより早く、同じところで、
一冊の本はノートにならなければならない。そう、い
けない。一端で化骨しつづけながら、その他の部分で
はさかんな増殖をつづける、薄い軟骨の細胞のように。

 平出の詩は岡井の詩とは関係ないのだが、その2連目が、私にとってはなぜか岡井の詩の「解説」のように響いてくる。いや、岡井の詩を読んだときの私の姿を「解説」してくれているように感じる。
 岡井は岡井の現実をひとつの作品にする。その作品を私はノートにする。そして、ノートの中で好き勝手に増殖する。その増殖したひとつの細胞が岡井の細胞を引き継いでいるのかいないのか、それはよくわからない。よくわからないけれど、その増殖に身を任せてしまうことが私にとって読むことなのだ、とあらためて感じた。

 私は私のことばのために読む。それが私の「読書日記」である。
 (今年もきままに、なんの方針もなく詩を読み感想を書きつらねます。「コメント」欄に、あるいはBBS 「こんな詩を書きました」に感想をお聞かせいただければありがたく思います。)

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