監督: イ・ジュニク 出演: カム・ウソン、イ・ジュンギ、チョン・ジニョン
いくつもおもしろいシーンがあるが私がひかれるのは、美男の芸人が王の前で人形芝居をしてみせるシーンである。肉声では何も語れない芸人。しかし芝居の中でなら思いのたけを繊細に語ることができる。そして、その人形芝居に王自身がのみこまれていく。王自身も人形を動かしながら芝居をする。王もまた自分自身の肉声をうまく伝えることのできない存在である。
美男の芸人が動かす人形の繊細な動きも美しいが、その人形にとりつかれ、無邪気に人形を動かしてみる王の表情も美しい。
王の肉声さえも殺してしまっているのは何か。「体制」である、といってしまえば簡単だが、「体制」というものは見えにくい。「体制」というのは「頭」ではことばにすっきりとおさまるが、それを具体的なことばでつたえようとするとことばにならない。
具体的に見えるのは、肉声を伝えられない人間の苦悩である。人はみな、ことばでは正確につたえられない肉声をもっている。それを解き放つために「芝居」がある。「芝居」のなかには、それを演じる人間の肉声があると同時に、それを見る観客の肉声もある。風刺劇なら、世の中をほんとうはそんなふうにみているけれど自分自身のことばでは恐くて言えないから、役者のやっていることを笑うことで自分の声を代弁するという肉声の在り方がある。この映画は、そうした「構造」を巧みに取り入れ、劇中劇を何度もくりひろげるが、それはあくまで「ストーリー」の都合である。
見どころは、やはり語ろうとして語れない肉体、肉声の苦しさである。
芸人のリーダーが相方の美男の芸人にそそぐ熱い眼差し。怒りと愛。一緒に芝居をして回るときの喜び。リーダーは怒りをあらわす肉声をもっているが、悲しみをあらわす肉声をもっていない。一方、相方の美男の芸人は怒りをあらわす肉声をもっていないが悲しみをあらわす方法を知っている。(それが王の前で見せた人形芝居である)。リーダーの怒りは美男の芸人を悲しませ、美男の芸人の悲しみはリーダーの男を怒らせる。
怒りが二人を新しい世界へひっぱり、悲しみがその世界に深みをあたえる。怒りの力で突き進み、悲しみで現実の奥へと沈み、世界がひろがる。
この怒りと悲しみと綱の上の芝居さながら、もつれあい、もつれあうことでバランスをとっている。つまり、それがもつれあうたびに、不思議なことに、喜びが伝わってくる。苦しいはずなのに、その苦しみを共有する人間がいる、つまり、生きている、互いにほんとうはこころの底で苦しみを抱き合って通じ合っているという喜びがあふれる。
ラストシーン。「体制」の戦いのさなか、宮廷の庭に張られた綱の上で、相方をかばって盲目になったリーダーと美男の芸人が、生まれ変わったらやはり芸人になるといって芝居をし、空中へ高くジャンプする。つなぐものは何もない。一本の綱さえない。しかし、ふたりは結ばれている。いっしょのこころ、という喜び。
この映画は無骨な芸人と美男の芸人、美男にこころを動かす王の三角関係の恋愛劇の様相ももっているが、王が嫉妬するのは、二人の見えない綱(糸というには太すぎる)つながりであろう。支えるものが何もなくても、結びついているこころ、その喜び。
その喜びへの高らかな讃歌をラストシーンに見た。
いくつもおもしろいシーンがあるが私がひかれるのは、美男の芸人が王の前で人形芝居をしてみせるシーンである。肉声では何も語れない芸人。しかし芝居の中でなら思いのたけを繊細に語ることができる。そして、その人形芝居に王自身がのみこまれていく。王自身も人形を動かしながら芝居をする。王もまた自分自身の肉声をうまく伝えることのできない存在である。
美男の芸人が動かす人形の繊細な動きも美しいが、その人形にとりつかれ、無邪気に人形を動かしてみる王の表情も美しい。
王の肉声さえも殺してしまっているのは何か。「体制」である、といってしまえば簡単だが、「体制」というものは見えにくい。「体制」というのは「頭」ではことばにすっきりとおさまるが、それを具体的なことばでつたえようとするとことばにならない。
具体的に見えるのは、肉声を伝えられない人間の苦悩である。人はみな、ことばでは正確につたえられない肉声をもっている。それを解き放つために「芝居」がある。「芝居」のなかには、それを演じる人間の肉声があると同時に、それを見る観客の肉声もある。風刺劇なら、世の中をほんとうはそんなふうにみているけれど自分自身のことばでは恐くて言えないから、役者のやっていることを笑うことで自分の声を代弁するという肉声の在り方がある。この映画は、そうした「構造」を巧みに取り入れ、劇中劇を何度もくりひろげるが、それはあくまで「ストーリー」の都合である。
見どころは、やはり語ろうとして語れない肉体、肉声の苦しさである。
芸人のリーダーが相方の美男の芸人にそそぐ熱い眼差し。怒りと愛。一緒に芝居をして回るときの喜び。リーダーは怒りをあらわす肉声をもっているが、悲しみをあらわす肉声をもっていない。一方、相方の美男の芸人は怒りをあらわす肉声をもっていないが悲しみをあらわす方法を知っている。(それが王の前で見せた人形芝居である)。リーダーの怒りは美男の芸人を悲しませ、美男の芸人の悲しみはリーダーの男を怒らせる。
怒りが二人を新しい世界へひっぱり、悲しみがその世界に深みをあたえる。怒りの力で突き進み、悲しみで現実の奥へと沈み、世界がひろがる。
この怒りと悲しみと綱の上の芝居さながら、もつれあい、もつれあうことでバランスをとっている。つまり、それがもつれあうたびに、不思議なことに、喜びが伝わってくる。苦しいはずなのに、その苦しみを共有する人間がいる、つまり、生きている、互いにほんとうはこころの底で苦しみを抱き合って通じ合っているという喜びがあふれる。
ラストシーン。「体制」の戦いのさなか、宮廷の庭に張られた綱の上で、相方をかばって盲目になったリーダーと美男の芸人が、生まれ変わったらやはり芸人になるといって芝居をし、空中へ高くジャンプする。つなぐものは何もない。一本の綱さえない。しかし、ふたりは結ばれている。いっしょのこころ、という喜び。
この映画は無骨な芸人と美男の芸人、美男にこころを動かす王の三角関係の恋愛劇の様相ももっているが、王が嫉妬するのは、二人の見えない綱(糸というには太すぎる)つながりであろう。支えるものが何もなくても、結びついているこころ、その喜び。
その喜びへの高らかな讃歌をラストシーンに見た。