詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(17)

2007-01-29 14:47:44 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 『西へ』(1981年)の「西へ」は葬儀から帰宅する清岡を描いている。その作品のなかに「放心」が2回登場する。1連目の最後「ほとんど放心」。5連目6行目「わたしのほとんど 放心もろとも」。「放心」して、自己を失って、ぼんやりと列車の窓から森を眺めている。そのとき大きな変化が起きる。

雑木の森の丘の裾を
捲くるように走りつづける
四輌連結の 秋の風。
ぐぐぐぐと
その巨大な昆虫の胴体は
わたしのほとんど 放心もろとも
約九十度 左へ曲がった。
なんと そのとき
くりかえしの 日常の忘却へ
落ちこぼれようとする太陽が
進行方向のどまんなかに
ぴたりと位置したのである。

一瞬 赤っぽい すさまじい明るさが
長く空洞をつらぬいた。
先頭のガラス窓
という閉じられた口から侵入し
後尾のガラス窓
という閉じられた肛門を通過して
おお 眩暈にも似た
日光の 別れの洪水。

 「放心」は「空洞」に通じ、また「眩暈」にも通じる。「放心」のなかで、空っぽの、無のこころの中での「眩暈」。その「眩暈」は何かが見えなくなることではない。そうではなく、あふれる光景が、視界を錯乱させることによって始まる「眩暈」である。見えなかったものが突然肉眼に飛び込んでくる。それをどう受け止めていいかわからない。そのときの「眩暈」。一瞬の、一瞬だけれど、無限の至福。至福としての「眩暈」。
 がここで私が思いだすのは、またしても「円き広場」である。
 列車という空洞は「円き広場」である。広場の中心である。放射状に伸びる道の代わりにレールがある。ある道から、広場に入ってきて道を曲がるように、列車はある角度からその位置に侵入し角度を変える。そのとき新しい道、外縁-広場-外縁を結ぶ道ができる。その新しい道そのものとして、太陽が広場を(列車を)貫く。そのとき目撃する光の洪水。錯乱のなかで、清岡は、自分がどこへ進んでいるか忘れる。どこへを忘れ、その瞬間の充実に夢中になる。その至福。
 清岡は、先の引用部分につづいて、はっきりと「幸福」ということばもつかっている。

沈もうとする
絶遠絶大の 花火の球の輝きを
体いっぱい ほんのりと
暖かく浴びることは
かすかな幸福にさえ 似ていたか?

 「放心」「眩暈」。それは「幸福」のことである。清岡は何度も何度も「幸福」を歌う詩人なのである。葬儀の帰りにさえ、悲しみではなく、ふと見つけた「幸福」について歌うのである。

わたしの行く先 あるいはもどる先は
どこであったか?

 そして、不思議な「幸福」からやがて我に返る。「わたしの行く先 あるいはもどる先は/どこであったか?」。それは、「円き広場」を通ってなら、どこへでも行けるということの裏返しの疑問である。
 生のすべての一瞬において、私たちは私たちを捨て、どこへでも行ける。今まで進んできた道を曲がる。その瞬間に新しい世界が見える。しかも、その世界は世界の果と果を一気に結びつける「永遠」そのものである。だから「眩暈」を感じずにはいられない。
 この瞬間、人は生まれ変わる。再生する。
 葬儀からの帰り道。悲しみにうちひしがれていたかもしれない。人生について輝く未来とは違うことを清岡は考えていたかもしれない。そうした考えが、一瞬、消える。不思議な体験、列車と夕陽が一直線につながり、夕陽が列車のなかに満ちるという体験をとおして、異性へ向かう衝動のようなエネルギー、あるいは火葬の炎へ向かう絶対的な消滅……どちらと名付けていいかわからないような「眩暈」のなかで、清岡自身のいのち、感覚が再生するのを感じる。
 この詩の最後の6行は非常に美しい。

空耳か ヒマラヤ杉を
めぐって飛ぶ 数羽の小鳥の
季節を告げて鳴く声が
遠くから聞こえた。
おお
湖のほとりの嬰児。

 「嬰児」は再生した清岡である。「嬰児」となって、今、清岡は湖のほとりにいる。列車のなかではない。そして小鳥の季節を告げる声を聞いている。
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石山淳「メモリアル・パーク」再読

2007-01-29 11:33:09 | 詩集
 1月26日に石山淳『石山淳詩集』(トレビ文庫、2007年01月10日日本図書刊行会発行、近代文芸社発売)の感想を書いた。直後、19540507さんというビジターから、「肉体/頭」という区分が文学の生命線ではないのではないか、というコメントが寄せられた。
 「メモリアル・パーク」について、もう一度触れる。

二十世紀文明を象徴する
ニューヨークの世界貿易センターへ
黒いミニチュア機が 水平のまま
液状ゴムの皮膜か
チョコレート液面に
すっぽりと吸い込まれていった

 1連目。私は「液状ゴムの皮膜」「チョコレート液面」がおもしろいと感じた。そのときは書かなかったが「ミニチュア機」「すっぽり」もおもしろいと思う。
 私がおもしろいと感じた部分は、いずれも「事実」とは違ったものである。貿易センタービルへ突入したのはミニチュア機ではない。ビルは液状ゴムの皮膜ではできていない。チョコレート液面でもない。すっぽり吸い込まれていったわけでもない。コンクリート、鉄筋、ガラスとぶつかり、そういうものを激しく壊しながら侵入していったのである。侵入することで破壊しつくしたのである。しかし、テレビで目撃したとき(と、思う)、石山の肉眼には、その後明確になった「事実」(頭で整理しなおした客観的な事件のありよう)はわからなかった。まったく違ったものに見えた。いわば、石山の肉眼(肉体)は「事実」を間違えて把握した。
 私がこの間違いをおもしろいと感じるのは、その間違いは修正されるものだからである。修正が可能なものだからである。肉眼(肉体)は見間違える。そして、それが間違いだと気がつき、少しずつ修正する。その修正という過程から「思想」が生まれる。何が正しくて、何が間違っているかを判断する基準をはっきりさせることから始まり、間違えないようにするにはどうすればいいか、と考え直さなければならない。間違えた部分を言いなおさなければならない。自分自身のことばをつくりかえなければならない。そして、そのとき「肉眼」そのものも鍛えられ、真実を見抜く眼になるのである。肉体の間違いの修正は肉体を鍛え直す。そして人間は生まれ変わる。人間を再生させるものを「思想」と私は読んでいる。

 自分のことばを修正するにはいろいろな手段がある。石山は、いきなり「他人の頭」をつかっている。それが2連目。

それは
怪獣映画の一コマに見紛(みまが)う
スロー・モーション映像におもわれた

 「怪獣映画の一コマ」「スロー・モーション映像」は映画監督が表現したものである。その一コマ、スロー・モーションは映画監督の肉体がつかみ取ってきたものを「頭」で整理し、再現したもの、いわば「ことば」である。それを石山は借用している。「映像」であるために石山は、そういうものを「肉眼」で見たと錯覚しているのかもしれないが、映画の映像は小説や詩、哲学でいえば「ことば」と同じものである。「ことば」のかわりに映像で語るのが映画である。そういうふうに他人の「ことば」(映像)を借用することは、自分のことばで考えることではなく、他人のことばで考えることである。「肉体」は何もせず、「頭」が他人のことばを借りてきて、石山の肉体に密着したことば「液状ゴム」「チョコレート液面」を「スロー・モーション映像」に修正する。石山は単に「頭」を修正しているに過ぎない。
 肉体と頭が、このとき断絶したのである。1連目と2連目では大きな断絶、修復しがたい断絶がある。
 「液状ゴム」「チョコレート液面」「すっぽり」にはいずれも皮膚感覚がある。手でさわったときの感触、触ったもののもっている柔らかさ、ねばねば、あるいは不気味さの感触。そういうものが2連目で一気に、跡形もなく消えてしまっている。「肉体」そのものがなくなってしまっている。
 こういう「修正」の仕方は、石山の独自の視点を単に消し去ることであって、真の意味での「修正」、間違いを乗り越えることによって獲得する「思想」とは関係がないと私は思う。
 映画監督の「頭」、そのことば(映像)をつかって石山の肉眼が見たものを修正したために、石山は、最後を次の6行で閉じることになる。

ツイン・ビルに黒鉛が上がり
骨材が 火を噴き
耐火ガラスが火を噴き
あれから 半年がきて
「受難の聖地」に
今も 人間が生き埋めになっている

 ここには最初のことばの痕跡など少しもない。最後の6行はまるでテレビレポーターの報告である。どこにも石山のオリジナルを感じさせるものもない。こういうことばになってしまったのは、1連目のオリジナルなことばを、2連目の絵画監督のことば(映像)で修正してしまったことに起因すると私は考えている。その後も最終連まで石山はさまざまに修正を試みるが、そのどこにも1連目のような「間違い」がない。間違えながら現実に接近していくときのリアルさがない。
 石山は、「液状ゴム」「チョコレート液面」ということばを石山自身の肉体を動かして修正する可能性を捨ててしまって、映画監督の「頭」で修正してしまった。それを私は残念に思う。今、石山の「液状ゴム」「チョコレート液面」を見た肉眼は何を見ているのかわからない。「受難の聖地」の痛み(触覚)がわからない。「液状ゴム」「チョコレート液面」を感じた触覚が、9・11テロの現場で何に触り、そこからどんな触った感じを肉体のなかに受け止めているのかわからない。
 石山の肉体は何も変わっていない。これでは詩を書いた意味がない。詩を書くということは、書く前と書いたあとではまったく違った人間になってしまうことである。すくなくとも、そういう可能性に接近することである。
 もし、ほんとうに石山が自分の肉体を大切にし、そこからことばを積み上げていく作業を進めるなら、最後は、修正された触覚が修正されたものとして立ち上がってくるはずである。誰も書かなかった「触覚」がことばとして書かれるはずである。それが「思想」というものである。そうならないのは、繰り返しになるが、2連目で映画監督の「頭」(ことば、映像)に頼って石山の肉眼を修正してしまったためである。石山は、いわば自分で自分の可能性を放棄してしまっている。「頭」で書くことで、石山は「肉体」の可能性を閉ざしてしまったのである。こうした変質を、私は非常に残念に思う。
 
コメント (8)
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