詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「インドの雨」ほか

2007-01-13 08:51:02 | 詩(雑誌・同人誌)
 北川朱実「インドの雨」ほか(「石の詩」2007年1月20日発行)。
 北川朱実「インドの雨」の1連目は何のことかわからない。しかし2連目以下を読むと、「なんのこと」はことばではうまく説明できないけれど、なんのことかすぐわかる。

その村では
人が雨になったり
雨が人になったりした

西インドのアウランガバード郊外の農村で
写生していた時のこと
熱心にのぞき込む少年に
クレヨンを渡すと

あっというまに
画用紙いっぱいに
紫いろの雨を降らせた

乾ききった大地は
一瞬にして泡だち
あぶりだしのように川があらわれたけれど

その日
空は
まっ青に晴れわたっていたのだ

 もちろん「人は雨になったり」はできない。しかし、なりたいのだ。少年は雨を降らせたいのだ。それが絵になってあらわれる。そして実際にそれが「雨乞い」であるかのように、雨が一瞬降るのだ。(これは、もっとも現実にそうだったのか、そういう夢を北川が見たのかはよくわからないが……。)
 ここには「言葉」(昨日取り上げた池田のつかっている意味での言葉)はない。だが、「声」がある。「人が雨になったり/雨が人になったりした」は「声」である。「声」であるがゆえに、「言葉の論理」「意味の論理」を超えてしまう。「言葉(意味)の論理」にしたがえば、「人(少年)が雨乞いをしたところ、実際に雨が降り、それを見た時はまるで雨そのものが人(少年)となってあらわれたように感じた」くらいになるだろうか。私が今書いたような書き方でも工夫すれば「詩」になるだろうけれど、北川の書いた1連目の美しさにはとうてい達することはないだろう。
 「言葉」には矛盾はあるだろうが、「声」には矛盾はない。あるいは、「声」は常に矛盾しているから真実をあらわしてしまう。「詩」になってしまう。「声」は肉体そのものであり、それはひとつのものである。手と足がばらばらに動いても、それはひとつの肉体であるように、「声」のなかでは、ひとつひとつの音はばらばらに動いているようでも、「声」そのものはひとつでしかない。「言葉」がそれぞれの単語に分解し、組み立てることができるのに、「声」はそういうことができない。ひとつながりになって、矛盾をかかえて豊かになって、そうして人の「耳」に届くのである。
 北川は「画用紙いっぱいに/紫いろの雨を降らせた」少年を見て、「人が雨になる」ときの「声」を聞いたのだ。その「声」が私には聞こえる。少年が書いた絵を見たわけではない。少年の「言葉」を聞いたわけではない。それなのに少年の「声」が聞こえる。
 北川は「石の詩」で「三度のめしより」というタイトルで詩人の「声」を紹介しているが、とてもいい「耳」をもった詩人だと思う。



 渡辺正也「朝へ」は美しい詩である。

明けると
空は
無音のまま遠ざかり
単音の星が
ひとつずつ滑っていくうちに
記憶が還ってくる

 「無音」「単音」ということばがつかわれているが、私にはなぜか「音」は聞こえない。むしろ「絵」が見える。渡辺はことばで音楽を描くというより絵を描くのだ。「音」の響きではなく、ここでは「滑っていく」という「音」の運動の軌跡--それが「絵」として提示されている。
 渡辺は視力を生きる詩人なのだろう。


コメント
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