詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

植田理佳「売買」ほか

2007-01-20 17:06:17 | 詩集
 植田理佳「売買」ほか(「不羈」32、2007年1月15日発行)。
 植田理佳「売買」は短文が積み重ねられた作品である。

 石を置くと歌が現れた。骨を置くと酒が差し出された。皮には穀物。心臓には刃。

 短文の魅力は飛躍力にある。省略することが生み出すスピードにある。植田のこの作品はそうした魅力を生かしきっていないと思う。
 書き出しの「石を置くと歌が現れた。」は美しい。この一文自体に飛躍がある。石と歌。その異物同士が出会いそのものが飛躍である。飛躍は、一瞬、私の頭を空白にする。つまり何が起きたかわからず、その空白の中で迷ってしまう。迷ったときは、何か、その迷いから救い出してくれる「道」のようなものが欲しい。ところが植田はそういう「道」を差し出さずに、さらに飛躍しつづける。その飛躍が最初の石と歌の飛躍(断絶)より大きければ、自然にその飛躍(断絶)に誘われてしまうものだが、その飛躍(断絶)が小さいと、ただ混乱させられているだけという気持ちになる。骨と酒、皮と穀物、心臓と刃。これでは「物々交換」になってしまう。石と歌は「物々交換」のようであって「物々交換」ではない。「歌」が「物」ではない。石と歌を等価とみなすものは、よほどの「好き者」である。そして、実は最初の1行は、そういう「好き者」を暗示しながら、次のことばで「好き者」を否定してしまっている。そのために短文でありながら、ずるずるとした感じ、飛躍力ない感じが漂ってしまう。
 それはそれでいいのかもしれない。植田は短文によって飛躍力ではなく、むしろ停滞感を書くという試みをしているのかもしれない。書き出しにつづいてすぐ「水は留まりながら流れ」という停滞を象徴することばが書かれている。それならそれで、もっと粘着力のある文体が必要なのだと思う。ことばが誘っていく方向が、その1行1行に内在する粘着力が必要なのだと思う。どうもちぐはぐな文体という印象が強い。短文なのに短いという印象がまったくない。粘着力ですべてを直列にして暴走するという感じでもない。並列、分散、という感じがしてしまう。
 ただ、ときどきおもしろい飛躍がある。突然「詩」が立ち上がってくる行がある。

 川に小便をすると蛍が飛んだ。

 小便をすることと蛍が飛ぶことは無関係である。その無関係なものが突然出会う。そして、その出会いに肉体が介在することで、感覚が刺激される。眠っていた感覚が一気に目覚める。飛躍とは実は感覚の目覚めのことなのだと実感させられる。このことばに先立つ「川の匂いが鼻にある。」という短い文もすばらしい。さりげなく肉体を覚醒させている。これがあるから「川に小便をすると蛍が飛んだ。」の視覚の覚醒がすーっと理解できるのだと思う。



 小杉元一「そのとき緋牡丹博徒は傘をさして」。最後の2行がおもしろい。

匕首を胸にのんで傘は闇のはらを
渡る

 「闇のはら」は「闇の原」だろうか。「闇の腹」だろうか。私は「腹」と取りたいのだ。それに先立つ「みんなのどぼとけばかりひかっていた」の「のどぼとけ」、「匕首を胸にのんで」の「胸」が「原」ではなく「腹」を引き寄せる。「闇の腹」と思った瞬間、闇が肉体をもったもののように生々しくなる。闇が体内と融合することで、そこを渡って行くのが映画俳優ではなく、「私」になる。そういう感覚の混乱、夢のような感じが楽しい。



 小柴節子「ゆき ふるる」のなかの2首にもひかれた。

うたわないわけについてうたおうか実存の傘を折りたたみてのち

まなうらを寺山修司駆けぬけり五月の書架を翔びたつカモメ


コメント (2)
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