詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーチン・スコセッシ監督「ディパーテッド」

2007-01-22 23:55:07 | 映画
監督 マーチン・スコセッシ 出演 レオナルド・ディカプリオ、マォト・デイモン、ジャック・ニコルソン

 この映画にはとても不思議なシーンがある。レオナルド・ディカプリオが演じる覆面捜査官が精神科医を訪問しセラピーを受けるシーンである。「インファナル・アフェア」にはこういうシーンはなかった。マーチン・スコセッシがリメイクするにあたってつけくわえたシーンである。このシーンは映画を間延びさせる。「インファナル・アフェア」が「男の世界」に徹底し、緊張感を高めていくのに対し、この映画ではこのシーンが邪魔をしハードボイルドではなく半熟程度に成り下がっている。
 しかし。
 このシーンがあって、この映画ははじめて「リメイク」を超えて「オリジナル」になる。
 この映画の「オリジナル」とは何か。ディカプリオの演技である。ディカプリオの魅力を最大限に引き出す--それがこの映画の「オリジナル」である。
 レオナルド・ディカプリオの演技の特徴は透明感にある。演じる、というのは映画にしろ劇にしろ、本人以外の人間を造形しながら、それでもなおかつ本人(レオナルド・ディカプリオ)であることを観客に伝えるものである。役であると同時に本人でもある。その一体感があるとき、私は「透明感」がある役者と呼んでいる。この映画ではその透明感がいっそうとぎすまされている。

 この映画でディカプリオが演じるのは、マフィアに潜入する覆面警官である。殺人にも平然と向き合い、向き合うことで警官の使命に反していると意識しながら、なおかつ大きな犯罪を摘発するために、それはくぐり抜けなければならない矛盾だと意識して任務についている。つまり、自己矛盾を抱えながら、演じるということを演じているのである。というより、演じていることがばれてはいけないという役を演じるという矛盾をさらけだしているのである。
 まずディカプリオは、そういう一面を引き出す。演じる。そして、透明になる。
 役のなかではタフな男である。しかし、それを演じているディカプリオは華奢な体と繊細な顔である。目の色、輝きに感情が浮き彫りになって見える。ここにすでに「矛盾」の芽がある。マフィアの組織のなかで、華奢な体、繊細な顔が、苦悩し、おびえ、震えるたびに、それがまるでディカプリオそのものに見えてくる。ディカプリオが警官を演じ、その警官が覆面捜査官を演じているということは頭のなかでは理解しているが、緊迫したシーンでは、見ている私の五感はディカプリオが覆面捜査官そのものになっていると受け止めてしまう。それがスリルをあおる。
 次に、いのちの危険がおよばないシーン、つまり「演技上での地」の警官を演じる部分では、緊張感ではなく、いらいらの演技の中にディカプリオ自身を出してくる。覆面捜査官であることがばれたらどうなるか、という緊張感に苦しんでいるのだが、警官にもどった場面では、その緊張感を上司にわかってもらえないという、いらいらした感情がむき出しになる。このいらいらも華奢な体、繊細な顔があってこそむき出しになる。強靱さを感じさせる体、叩いても壊れないような顔では、いらいらは不安ではなく欲求不満になってしまうだろう。ここでも私は、役ではなく、ディカプリオそのものを見ている気分になる。
 精神科医との関係では、いらいらの原因を説明できないために、二人の間にマフィアとの間でも警官との間での生じなかったもうひとつの感情が噴出する。「不透明」な自分を伝えるしかできない悲しみ。悲しみを救ってもらいたいという甘え、悲しみを訴えることができない憤懣、頼りたい気持ちと反抗心が入り交じった思春期の少年のような表情が噴出する。今の自分は「演じられた男」である、何を演じているのか知らないまま、演技していることだけは理解してほしいとディカプリオは医師に訴える。もちろん直接ではなく、苦悩する元警官というもうひとつの役を演じながらである。この複雑さの中に、生々しいディカプリオが顔を出すのである。ディカプリオそのものが顔を出すのである。「ディカプリオそのものだって? 冗談じゃない。実際にあったこともないのに、あんたが見ているのは演技しているディカプリオだけだというのに」という生々しい声が聞こえてきそうである。その生々しい声に引き込まれてしまうのである。一体感を拒否する声そのものに一体感を感じてしまうのである。
 このシーンがなくてもストーリーは成り立つが、このシーンがあるからこそ、この映画にディカプリオをつかった理由がわかる。このシーンゆえに、ディカプリオがいっそう輝く。ディカプリオがディカプリオとして、全体に広がって行く。映画全体を引き締める。もうひとりの「裏切り者」、マット・デイモンは単なる「助演」以下の登場人物になってしまうのである。マット・デイモンは単なるストーリーを展開するための役者であって、この映画では彼自身を見せる必要がない。そして、実際に彼自身を見せてはいない。

 たぶん、マーチン・スコセッシは原作のハードボイルドな「男の世界」よりも、その「男の世界」をとおして「恋愛」を描きたかったのだろう。「恋愛」といっても男が女を口説くというハードボイルド恋愛ではなく、女が男の繊細さ、鋭敏さに気がつき、それの保護者となることで成立する「恋愛」である。そういう世界でこそディカプリオが輝くということを描きたくて、こういうシーンが生まれたのだと思う。
 変な部分、というより精神科医の登場がない方が映画そのものは緊張感が強まりおもしろくなるという意見があると思うし、私もそう考えるひとりだが、そういう変な部分、余剰の部分、どうしてもそれてしまった「脇道」のような部分に、人間の本質は出るものである。
 つまり、精神科医はいわばマーチン・スコセッシなのである。精神科医に託して、マーチン・スコセッシは「ディカプリオは繊細で敏感だ。その感情の奥には甘えと反抗心が拮抗している思春期の少年がいる。ディカプリオ自身どう制御していいのかわからない。それが心配でしようがない」と言っているかのようである。
 それがこの映画の「オリジナル」である。
 この映画はストーリーを描いているのではない。ストーリーは「リメイク」である段階で、すでに放棄されている。そんなものに監督は執着していない。執着しているのは、ディカプリオをどれだけ魅力的な役者に仕立てるかということだけである。それが「オリジナル」の部分だ。
 これはマーチン・スコセッシからディカプリオにあてたラブレターであり、ラブレターであるという点で「オリジナル」であり、その監督の要求に完全にディカプリオがこたえているという点でも「オリジナル」である。

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清岡卓行論のためのメモ(14)

2007-01-22 22:50:09 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 『駱駝のうえの音楽』(1980年)は中国を題材にしている。清岡卓行の特徴は「頭」で旅行しないことである。かならずそこには肉体がある。「白玉の杯」。

注がれたものが
葡萄の美酒であったかどうか
手にしたものが
夜光の杯であったかどうか
そんな外側の夢は 忘れてしまったが
今も 舌の先に
甘く悩ましい別れの味は 沁みたままだ。

 「外側」。その対極は「内側」。そして「内側」が「肉体(舌)」であるなら、「肉体」の対極にあるのは何だろうか。「頭」である。「頭脳の記憶」である。それが「頭脳」のものであるからこそ、「頭脳」はそれを「忘れ」ることができる。ところが「肉体」は忘れることができないのである。いつまでも肉体の内部に「沁みたまま」残っている。しかも、「甘く悩ましい」という感情となって残っている。あるいは「味」という味覚として残っている。そして、その味覚に「別れの」という修飾語がかぶさるとき、味覚はまたひとつの感情となる。「頭脳の記憶」は「忘れ」ることができる。しかし肉体にからみついた感覚、感情はいつまでも残り続ける。
 最後の連。

淡い白の半ば透明な肌のなかで
濃い白や薄い黄の 小さな濁りが
若い日に解けなかった
いくつもの謎のように
散らばって 凝えたままだ。
そして 飲口にかぶせられた金の輪の
深く静かな輝きが
若い日の赤裸裸な告白を
やさしく吸って 黙ったままだ。

 これは「杯」の描写だが、まるで性愛の始まりのように、濃密な揺らぎで肉体を揺さぶる。「頭脳」ではなく、肉体を揺さぶる。先に引用した2連目の「舌」と「吸う」が重なり合う。杯から酒を飲む。その単純な動きが、まるで舌(唇)と杯との性愛のように生々しい。杯から舌をつたい、のどの奥へと流れていく酒は、一期一会の出会い、一期一会の激しい恋愛のように肉体に刻印される。一期一会は出会いであると同時に「別れ」である。もしかすると、「若い日に解けなかった/いくつもの謎」とは、一期一会のことかもしれない。出会いと別れ。(ここにも、書かれないない「と」がある。つまり、出会い「と」別れが……。)その深くからみあった「事件」。それを「頭脳」の記憶としてではなく、肉体の在り方として(今ある状態として)清岡は描く。その瞬間に、人間が生々しく立ち現れてくる。

 清岡は他人を思い描くときに、常に肉体を思い浮かべる詩人のように感じられる。「頭脳」(思考、記憶)ではなく、具体的な肉体を思い浮かべ、その肉体への共感を手がかりにして他者へと接近していくように感じられる。
 「ある画像●」(谷内注・黒丸は石偏に専、せん、と読む。煉瓦、タイルに似たものを表す)。駱駝が「蘇蘇草(駱駝草)」を駱駝が食べたのではないかと想像する。それにつづく行。

そして しこたま
その好物を食らったのではないか。
一かたまりの蘇蘇草--
いっぱいの細い棘が
口のなかを血だらけにしてくれる
いとしのアルカリ植物を。

血はもう おさまっているだろうか。
左手で杖をつき
右手に握った手綱で
驢馬をひいて歩く男の
とんがり帽子の頭のなかに
女のことで傷ついて滲んだ
血はもう おさまっているだろうか。

 清岡にとって「頭」さえも肉体である。「頭」は「思考」「記憶」する前に、まず肉体である。そこには血が流れている。「思考」や「記憶」にとって「血」は比喩であるが、「肉体としてのあたま」にとって「血」は比喩ではなく、肉体そのものである。手で触れれば生暖かい存在である。そうした手触りのあるものを媒介にして、清岡は駱駝にもなれば、駱駝をひいて旅する男にもなる。「頭」で想像するのではなく、「肉体」で想像するのである。
 清岡の詩は論理的でありながら「知」の冷たさがない。いつも人間の温かな感覚がある。それは清岡がことばを「頭」ではなく「肉体」で動かしているからだろう。清岡は、いつも彼の肉体が存在する場所で詩を書いている、という印象がある。

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