詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中堂けいこ『枇杷狩り』

2007-01-09 11:21:59 | 詩集
 中堂けいこ枇杷狩り』(土曜美術出版販売、2006年11月20日)。
 「夢幻」という表現はつかっていないが、中田敬二『夢幻のとき』(01月08日の日記参照)よりは「夢幻」を感じさせる。「批評」の出発点が、「伊豆大島」「ナガサキ」などではなく、彼女の肉体そのものだからだと思う。
 「白蛇」の最後の部分。

蛇になっても祖父は結構なハンサムに見え、縦縞の祖母も祖父もおかしいが、生きているのは何よりうれしい。

 この「おかしい」がすばらしい。「縦縞の(銘仙の着物)の祖母」が「おかしい」のはその着物が「見慣れぬ」ものだからである。「白蛇の祖父」が「おかしい」のは、蛇は人間ではないからである。そして「おかしい」という基準になっているのは、中堂の長い間の記憶、常識、常識というより肉体になってしまった考え(つまり、彼女の肉体から切り離しては存在しない考え)である。
 もちろんこういう「考え」は「頭」だけでもつくられるけれど、「頭」だけでつくられた基準の場合、次の「生きているのは何よりうれしい」が結びつかない。
 生きているというのは、そこに肉体(たとえそれが蛇であったとしても)があり、それが動くから生きているのである。「頭」ではなく、蛇が動くのを見たとき、中堂の肉体そのものが反応し(つまり、奥深いところにある筋肉や血が動き)、「あ、生きている」と肉体で感じるのだ。
 それに先立つ部分。

 白蛇の口元に(水を--谷内注)含ませる。ふいに白さがはえわたり、ああ、じいちゃんが生き返った、よかった、よかった。障子越しに薄明かりが射して、人々の顔がほんのり浮き上がる。

 「生き返った、よかった、よかった」は「頭」で考え、判断したことがらではない。肉体の反応である。ほんとうに祖父が蛇なら生き返られては困るだろう。そういう不条理なことは「頭」は許さないだろう。ところが肉体は、命が消えるのよりも、どんなときにも命がよみがえる方が安心するのだ。「よかった、よかった」と思ってしまうのだ。肉体の、というより、命のあるものの自然な反応といっていいかもしれない。
 この「よかった、よかった」は最後の「うれしい」と同じものである。
 そして、「おかしい」と「うれしい」(よかった、よかった)を結びつけているのが、中堂の肉体である。手足をもっている人間の肉体から見れば、手足のない白蛇が「祖父」であるというのは「おかしい」。でも、同じように肉体をもち、命をもっている人間には、それがどんな形をしているのであれ、生き物が生きているというのは「うれしい」。
 なんという不思議。そういうしかない。「白蛇」は「夢」を語った作品だが、まさに「夢幻」とは、そういう肉体の不思議さそのもののなかにこそある、と実感してしまう。

 中堂のことばのなかにはいつも肉体が存在する。だから、そのことばは不透明である。そして、この不透明というのは「頭」で考えるから不透明なのであって、肉体そのものを動かせば、すーっと不透明なものが消えて別なものが立ち現れるという不透明さである。たとえば「うりうはら」。

うりうはら うりう うり
瓜生原病院の立て看板
傍らに元病院長がすわっている
うりうはら先生?
体中に蔓をまといつかせ
この蔓先をたどればわたくしの地所に参ります
ここから深江の浜までいちめん
瓜の原 蔓の原
どのような瓜でしょう?
しろうりあおうりきうりあらゆるうり

 「しろうりあおうりきうりあらゆるうり」。このことばを口の中でころがすときの甘さ。喜び。「瓜生原」は私は「うりゅうはら」と読んでしまうが、それを「うりうはら」と分解したときからはじまる何かがまとわりついてくるような、それこそ蔓のほそいうねりが動くような感じ。それは口蓋に、のどに、耳に--そして肉体全体に広がる。
 「瓜生原病院」はたぶん「産科」なのだろう。
 肉体の奥をくすぐる音の動きにつづいて、詩では出産が語られるが、その出産、あるいは命の誕生のなんともいえない自然な生命力。そういうものを楽々と(と私には感じられる)不思議なことばをもった詩人が中堂なのだと思う。

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イングマール・ベルイマン監督「サラバンド」

2007-01-09 01:40:43 | 映画
監督 イングマール・ベルイマン 出演 リヴ・ウルマン、エルランド・ヨセフソン、ボリエ・アールステッド、ユーリア・ダフヴェニウス

 不思議なシーンがある。リヴ・ウルマンがエルランド・ヨセフソンを訪ねていく。エルランド・ヨセフソンはベランダで昼寝している。それをリヴ・ウルマンが部屋の中から見つめ、カメラに向かって説明する。「1分見つめて、それからベランダへ出ていくわ」とカメラに向かって自分の行動も説明する。「あと10秒」というようなこともことばにして語る。
 普通の映画ではありえないシーンである。そういうことばは語られず、ただじーっと男を見つめる女が映し出されるだけというのが普通である。この映画は、そういう普通の映画ではない、とこのシーンは最初にことわっているのである。
 では、どういう映画か。
 リヴ・ウルマンがそのときにとった行動そのままの映画である。つまり、自分が今からしようとしていることを語るという映画である。観客に向かってもそうだが、そこに登場する人物に対しても、常に語る--語ることが、この映画の主題である。
 私は字幕を読まなければわからない映画は大嫌いである。そんなものは映画ではない、と思っている。しかし、ベルイマンのこの映画は別格である。字幕を読まなければ何を語っているかわからないのに、映像に引き込まれて行く。苦しくなる。夢中になる。
 私は、実は、この映画は12月に見た。すでに半月以上たっている。そして、語る映画であると書きながら、そこで語られたせりふなどひとつも覚えていない。生理中にチェロのレッスンをするのは苦痛だとリヴ・ウルマンに対してユーリア・ダフヴェニウスが語ったことくらいだ。
 それなのに、この映画が忘れられない。
 リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソン。別れた女と男。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウス。別れた男の孫娘。ユーリア・ダフヴェニウスとボリエ・アールステッド。娘と父の近親相姦そのものといった関係。エルランド・ヨセフソンとボリエ・アールステッド。父に甘えたい息子と甘えようとする息子を拒絶する父。エルランド・ヨセフソンとユーリア・ダフヴェニウス。祖父と孫娘。間に「息子(父)」をはさむことで距離ができ、そこには憎しみが欠落し、愛情だけが満ちあふれる。
 語ることと距離。たぶん、それが本当のテーマなのだろう。
 リヴ・ウルマンは語りながらエルランド・ヨセフソンとの距離を縮めてゆき、30年ぶりに再会する。そこには「時間」の距離もある。「愛」には距離が必要なのだ。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウスには血のつながりがないという「距離」がある。リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソンには30年という時間の「距離」がある。逆にエルランド・ヨセフソンとボリエ・アールステッドは本当は離れた場所に住んでいるのに今は娘のレッスンのために近付いている。近くに住んでいる。そのことが憎しみをあおる。語れば語るほど、その距離がぎすぎすする。
 語ること、距離、そこに渦巻く愛憎。それをベルイマンは不思議な映像処理で見せる。たとえばリヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウス。2人はテーブルに平行にならんで料理の下準備をしている。2人は同じ方向をむいている。対立がない。平和である。2人を結びつけるのはテーブルの上の料理の材料である。そこには笑いがある。
 ユーリア・ダフヴェニウスとボリエ・アールステッド。1つのベッド。娘の背中越しに父親が娘の見ている方向を見つめる。あるいはチェロのレッスン。向き合い、涙を流し、キスさえする。その愛憎のうごめき。
 リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソン。女は悪夢におびえる男を迎え入れ、いっしょに裸の体を並べる。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウスがそうであったように、平行にならんで、同じ天井を見つめる。平和がある。
 向き合ったとき怒りがうずまき、平行にならんだとき平和が訪れる。接近が憎しみを駆り立て、遠い距離が平和をもたらす。--こうした関係を、ほとんど役者のアップで描き出す。何が語られたかを忘れてしまっても、その距離、対立、平行の印象が映像として鮮明なので、この映画を忘れることができないのだ。

 それにしても、と思う。こんなふうに、一瞬一瞬、むき出しの感情が次々に変化する演技を、ほとんど顔だけで演じるのはたいへんなことだろう。ベルイマンは役者を酷使している。そして役者はベルイマンによって酷使されることによって輝いている。
 音楽もすばらしい。強靱な映画である。

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