中堂けいこ『枇杷狩り』(土曜美術出版販売、2006年11月20日)。
「夢幻」という表現はつかっていないが、中田敬二『夢幻のとき』(01月08日の日記参照)よりは「夢幻」を感じさせる。「批評」の出発点が、「伊豆大島」「ナガサキ」などではなく、彼女の肉体そのものだからだと思う。
「白蛇」の最後の部分。
この「おかしい」がすばらしい。「縦縞の(銘仙の着物)の祖母」が「おかしい」のはその着物が「見慣れぬ」ものだからである。「白蛇の祖父」が「おかしい」のは、蛇は人間ではないからである。そして「おかしい」という基準になっているのは、中堂の長い間の記憶、常識、常識というより肉体になってしまった考え(つまり、彼女の肉体から切り離しては存在しない考え)である。
もちろんこういう「考え」は「頭」だけでもつくられるけれど、「頭」だけでつくられた基準の場合、次の「生きているのは何よりうれしい」が結びつかない。
生きているというのは、そこに肉体(たとえそれが蛇であったとしても)があり、それが動くから生きているのである。「頭」ではなく、蛇が動くのを見たとき、中堂の肉体そのものが反応し(つまり、奥深いところにある筋肉や血が動き)、「あ、生きている」と肉体で感じるのだ。
それに先立つ部分。
「生き返った、よかった、よかった」は「頭」で考え、判断したことがらではない。肉体の反応である。ほんとうに祖父が蛇なら生き返られては困るだろう。そういう不条理なことは「頭」は許さないだろう。ところが肉体は、命が消えるのよりも、どんなときにも命がよみがえる方が安心するのだ。「よかった、よかった」と思ってしまうのだ。肉体の、というより、命のあるものの自然な反応といっていいかもしれない。
この「よかった、よかった」は最後の「うれしい」と同じものである。
そして、「おかしい」と「うれしい」(よかった、よかった)を結びつけているのが、中堂の肉体である。手足をもっている人間の肉体から見れば、手足のない白蛇が「祖父」であるというのは「おかしい」。でも、同じように肉体をもち、命をもっている人間には、それがどんな形をしているのであれ、生き物が生きているというのは「うれしい」。
なんという不思議。そういうしかない。「白蛇」は「夢」を語った作品だが、まさに「夢幻」とは、そういう肉体の不思議さそのもののなかにこそある、と実感してしまう。
中堂のことばのなかにはいつも肉体が存在する。だから、そのことばは不透明である。そして、この不透明というのは「頭」で考えるから不透明なのであって、肉体そのものを動かせば、すーっと不透明なものが消えて別なものが立ち現れるという不透明さである。たとえば「うりうはら」。
「しろうりあおうりきうりあらゆるうり」。このことばを口の中でころがすときの甘さ。喜び。「瓜生原」は私は「うりゅうはら」と読んでしまうが、それを「うりうはら」と分解したときからはじまる何かがまとわりついてくるような、それこそ蔓のほそいうねりが動くような感じ。それは口蓋に、のどに、耳に--そして肉体全体に広がる。
「瓜生原病院」はたぶん「産科」なのだろう。
肉体の奥をくすぐる音の動きにつづいて、詩では出産が語られるが、その出産、あるいは命の誕生のなんともいえない自然な生命力。そういうものを楽々と(と私には感じられる)不思議なことばをもった詩人が中堂なのだと思う。
「夢幻」という表現はつかっていないが、中田敬二『夢幻のとき』(01月08日の日記参照)よりは「夢幻」を感じさせる。「批評」の出発点が、「伊豆大島」「ナガサキ」などではなく、彼女の肉体そのものだからだと思う。
「白蛇」の最後の部分。
蛇になっても祖父は結構なハンサムに見え、縦縞の祖母も祖父もおかしいが、生きているのは何よりうれしい。
この「おかしい」がすばらしい。「縦縞の(銘仙の着物)の祖母」が「おかしい」のはその着物が「見慣れぬ」ものだからである。「白蛇の祖父」が「おかしい」のは、蛇は人間ではないからである。そして「おかしい」という基準になっているのは、中堂の長い間の記憶、常識、常識というより肉体になってしまった考え(つまり、彼女の肉体から切り離しては存在しない考え)である。
もちろんこういう「考え」は「頭」だけでもつくられるけれど、「頭」だけでつくられた基準の場合、次の「生きているのは何よりうれしい」が結びつかない。
生きているというのは、そこに肉体(たとえそれが蛇であったとしても)があり、それが動くから生きているのである。「頭」ではなく、蛇が動くのを見たとき、中堂の肉体そのものが反応し(つまり、奥深いところにある筋肉や血が動き)、「あ、生きている」と肉体で感じるのだ。
それに先立つ部分。
白蛇の口元に(水を--谷内注)含ませる。ふいに白さがはえわたり、ああ、じいちゃんが生き返った、よかった、よかった。障子越しに薄明かりが射して、人々の顔がほんのり浮き上がる。
「生き返った、よかった、よかった」は「頭」で考え、判断したことがらではない。肉体の反応である。ほんとうに祖父が蛇なら生き返られては困るだろう。そういう不条理なことは「頭」は許さないだろう。ところが肉体は、命が消えるのよりも、どんなときにも命がよみがえる方が安心するのだ。「よかった、よかった」と思ってしまうのだ。肉体の、というより、命のあるものの自然な反応といっていいかもしれない。
この「よかった、よかった」は最後の「うれしい」と同じものである。
そして、「おかしい」と「うれしい」(よかった、よかった)を結びつけているのが、中堂の肉体である。手足をもっている人間の肉体から見れば、手足のない白蛇が「祖父」であるというのは「おかしい」。でも、同じように肉体をもち、命をもっている人間には、それがどんな形をしているのであれ、生き物が生きているというのは「うれしい」。
なんという不思議。そういうしかない。「白蛇」は「夢」を語った作品だが、まさに「夢幻」とは、そういう肉体の不思議さそのもののなかにこそある、と実感してしまう。
中堂のことばのなかにはいつも肉体が存在する。だから、そのことばは不透明である。そして、この不透明というのは「頭」で考えるから不透明なのであって、肉体そのものを動かせば、すーっと不透明なものが消えて別なものが立ち現れるという不透明さである。たとえば「うりうはら」。
うりうはら うりう うり
瓜生原病院の立て看板
傍らに元病院長がすわっている
うりうはら先生?
体中に蔓をまといつかせ
この蔓先をたどればわたくしの地所に参ります
ここから深江の浜までいちめん
瓜の原 蔓の原
どのような瓜でしょう?
しろうりあおうりきうりあらゆるうり
「しろうりあおうりきうりあらゆるうり」。このことばを口の中でころがすときの甘さ。喜び。「瓜生原」は私は「うりゅうはら」と読んでしまうが、それを「うりうはら」と分解したときからはじまる何かがまとわりついてくるような、それこそ蔓のほそいうねりが動くような感じ。それは口蓋に、のどに、耳に--そして肉体全体に広がる。
「瓜生原病院」はたぶん「産科」なのだろう。
肉体の奥をくすぐる音の動きにつづいて、詩では出産が語られるが、その出産、あるいは命の誕生のなんともいえない自然な生命力。そういうものを楽々と(と私には感じられる)不思議なことばをもった詩人が中堂なのだと思う。