詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

沖長ルミ子「食べる」ほか

2007-01-11 22:34:46 | 詩(雑誌・同人誌)
 沖長ルミ子「食べる」ほか(「どぅるかまら」 1号、2006年11月30日発行)。
 沖長ルミ子「食べる」は自分の家で飼っていた鶏をさばいて食べることを描いている。12羽飼っている。そのうちの1羽を父がさばいている。その終わりの2連。

井戸端でブリキのバケツを洗う音がする
父親の仕事が終ったようす
わたしたち家族そろって
今夜は笑いながら食卓を囲むでしょう

鶏小屋の前を通るとき
横目で数を数えてみた
羽をばたつかせてやたら走りまわり
十一羽のような
十二羽のような

 最後の2行がとてもいい。「十一羽」であることは間違いない。「十二羽」ではけっしてないことは頭では完全に理解している。しかし肉眼では、その違いはわからない。特に「横目」でさっと見たかぎりではわからない。動き回っていればなおさらわからない。もちろん、そこには鶏への思いも含まれている。
 鶏は、卵を産ませ、それを食べる。卵を産まなくなったらさばいて鶏を食べる。--そういうことは頭ではわかっているし、感情としても納得しているはずのことである。納得しているはずのことではあるけれど、感情というのは、納得通りには動かない。
 そのあたりの、ことばにはできないような、あいまいさが「十一羽のような/十二羽のような」につまっている。
 たぶん、そういうあいまいさを含めて、本当の納得というものがあるのだろう。自分の仕事、自分の「分」というものが……。
 だからこそ、それに先立つ父親の描写、母の様子、そして「わたし」がそういう日常にどんなふうにかかわっているか、かかわりたいか、ということが、とても美しく描かれている。特別技巧をこらしいるわけではないのに、美しい形で目に入ってくる。ことばに無理がないのだ。
 自然を踏み外さない。自然であることを踏み外さない、という生き方がここにあらわれている。「食べる」というタイトルも、自然そのものである。



 田中澄子「ヒロ子さんは」もおもしろかった。

 ずみ子さーん とわたしを呼びながら家の中に入りこんでくる はーいと答えてふりかえるともう目の前にいる 嗄(しわが)れた声だけれど すみ子さんがずみ子さんになっているわけではなく 私の耳がそう聞いてしまう (略) 隣の家に灯が点いているっていいもんだね 寂しかったよずみ子さん ほだされてつい唇の端がゆるんでしまう のを待っていたように ねぇねぇ 一年ぶり 夕食ご一緒しましょう

 「ほだされてつい唇の端がゆるんでしまう のを待っていたように」の一字空きがすばらしい。間がすばらしい。この「間」によってふたりの肉体が見えてくる。
 ふたりの肉体が、というのは、「ずみ子(すみ子)さん」と「ヒロ子さん」が対話するとき、ふたりは単に相手のことばの論理を聞いているだけではなく、きちんと相手の顔を見て、そこから相手の意識(感情)をくみ取り、ことばというよりはむしろその表情と対話している、ほんとうに対話しているのはことばではなく、肉体にあらわれた変化、表情を相手にしているということである。そして、そのことを田中は明確に認識している。田中の肉体が表情をもっている、そしてその表情、肉体の微妙な動きこそが、人と人との対話なのだと意識している。ことばを聞くのは「頭」ではなく、もっと体全体がことばを受け止めるのである。そして、ことばをかえすのはやはり肉体なのだ。そういうことを田中ははっきり体得している。
 「すみ子さんがずみ子さんになっているわけではなく 私の耳がそう聞いてしまう」。この「すみ子さんがずみ子さんになっているわけではなく」は「頭」が考えたことである。そういう「頭」で整理したことがらを、「耳」が裏切る。肉体が裏切る。ここにも田中の「頭」よりも肉体を優先する、尊重する姿勢が出ている。
 肉体が「頭」よりも便利(?)なところは、「頭」はまじってしまうが肉体は混じり合わないことである。ことばは入り交じるとそのことばを言ったのがだれなのかわからなくなることがあるが、肉体はそういう具合には入り交じらない。どんなに接近しても「ずみ子(すみ子)さん」の肉体は「ずみ子(すみ子)さん」の肉体であり、「ヒロ子さん」の肉体は「ヒロ子さん」の肉体である。
 そして。
 ここで少し私の感想は前へもどるのだが、その肉体と肉体のあいだには「間」がある。「あき」がある。そしてこの「間」を人間というのは微妙に動かしながら対話するのである。「間」の動かし方、狭めたり、広げたりするのが人間の対話、つきあいなのである。 そして。
 と、ここで少し私の感想を先へ進める。この「間」のことを、田中は「ひっつきもっつき」と表現している。たぶん、この「ひっつきもっつき」というのは岡山(倉敷?)の方言であろう。標準語でいえば「くっつき、もつれあい」なのか、いわゆる「つるんんでいる」という状態なのか、ちょっとうまくいえないけれど、仲好しの状態だろう。ここに方言、田中の生活の場でくりかえしつかわれ、共有されたことばをつかうところにも、田中の肉体が生きてきた「場」を大切にするという姿勢が出ている。
 「ひっつきもっつき」が方言とは知らなかった--と田中は言うかもしれない。そういう「無意識」、田中から意識によって切り離せないことばこそ、私は「思想」と考えるのだが、そこにはやはり肉体がある。「ひっつきもっつき」できるのは、あくまで肉体である。こんなふうに自然に肉体を表現することばはいいなあ、と思う。

コメント
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