詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石峰意佐雄『かごしま詩文庫2 石峰意佐雄詩集』

2007-01-25 10:22:30 | 詩集
 石峰意佐雄『かごしま詩文庫2 石峰意佐雄詩集』(ジャプラン、2006年09月01日発行)。
 石峰の詩はとてもおだやかである。そのおだやかさはどこからきているか。「あまりにもまぶしいしろさのなかで」。その書き出し。

こうして飛行機で
あなたの遺骸に向かって近づきながら
もう お茶目なあなたはやってきている
私をためすように そっと
身をかくしたりしながら
あなたが いっぱい
やってきている

 「私(石峰)」が亡くなった「あなた」を思い出す。そのことをいったん「あなたの遺骸に向かって近づきながら」と石峰は書くのだが、すぐそれを訂正し、書き直す。「もう お茶目なあなたはやってきている」と。近付くとは石峰が単に他人の方へ接近するということではなく、他人が近付いてくる、やってくるのを受け止めることである。相手がやってきやすいように「私」の広げることである。
 包容力が石峰の自己主張である。自分を押しつけるのではなく、他人を受け入れる。そうすることで石峰は石峰がどんな人間であるかを明らかにする。

 「息子たち」は暴走族を描いている。寝床のなかで暴走族が走り回る音を聞いている。そのバイクの音の表現がおもしろい。

ねどこのなかで こうして きいている
とおいいので

(行ったり来たり)

なんだか まゆを織っているような

 めん めんめん めめめんめん めん めん
 めめめめめん めめめめめん

だだっこみたいに
しりあがりに たたみかけてくる なんという
甘えかた
ぐっしょりだ

 へうん へうん   へうん へうん

だれか いってなぐりたおしてやれ

 をあ-----お をあ-----

(あいつら ぼくらの 息子たち)
 へうん へうん    へうん へうん

 「だれか いってなぐりたおしてやれ」ということばはあるが、それは一瞬のこと。飛行機で「あなたの遺骸」に近付くようなもの。実際には、バイクで走り回るしか自分を表現する方法を知らない少年たちの声を聞いているのである。「なんという/甘え方」。少年たちを甘えん坊と受け止めている。甘えん坊は、2歳の直子が「麦茶」を「ぶぶちゃ」としか言えないように、意味のわからないことばしか話せない。それが繰り返されるバイクの音のオノマトぺである。何を言っているか、わからない。でも何かを言いたいことはわかる。だから「なんという/甘え方」というしかない。そんなふうに批判しながらも、石峰は少年たちを受け止めている。「あいつら ぼくらの 息子たち」と受け止める。この包容力が石峰のことばの力である。

 石峰は彼自身の包容力をもちろん「包容力」というようなことばでは表現していない。「共生」ということばで表現している。「ら獣」という詩のなかに「共生」ということばが出てくる。「ら獣」とは、ラクダのことだろう。その長い毛を裸(ら)の獣にとりついた蚊のようなものと見立て、動物と蚊が「共生」していると描いた作品である。
 裸の動物にとって、蚊にとりつかれて生きることはどんな意味があるだろうか。蚊は裸の動物に寄生することで生きているが、宿主である「ら獣」は? 
 石峰は、最後に何やら結論めいたもの(?)を書いているが、すっきりしない。
 実は結論などないのだ。それがどんなものであれ、何かが自分の方に向かってきたらそれを受け入れる。それが幼い子供、自分の考えを自分のことばで語ることのできない少年ならばなおのこと、それをそのまま受け入れる。「包容力」というよりは、受け入れながらいっしょになって生きる。そういうことを石峰は石峰の生き方として選んでいる。そういうことを「思想」として肉体化している。
 そういう思想がそのまま、ことばのやわらかなふくらみとなっている。積み重なって、人間のぬくもり、やさしさを滲ませる詩になっている。

 「樹と火」という詩もすばらしい。火事の延焼を樹木が身を挺して防ぐという詩である。そのなかほど。

火が跳び移ろうとしたのか 樹が
抱き抱えようとしたのか
吹きちぎるような音がして いっしゅん
風のようにさあっと靡いたのに合わせて
樹が火のかたちと同じになったみたいだった
すると 樹は火をすっかり呑みこんで
もう火はどこにもなかった

 「私は火だったのか」ということばでこの作品は締めくくられているが、これは石峰の深い深い自省のことばだろう。火事の延焼を防いだ樹のように生きたい、そういう包容力で何かを受け止めたい。けれど、ほんとうにそういうことができているだろうか。もしかすると樹を理想とする石峰自身が火ではなかったか。そんなものが無意識のうちになかったか。
 夢--人間の無意識がつくりだす世界を描くという形を借りながら(「樹と火」は石峰が夢のなかで目撃した世界である)、石峰は静かに思いめぐらしている。
 「私は火だったのか」という自省で作品を閉じる力、そこに石峰のほんとうの人間としての力、「思想」があると思った。
 深く深く感動した。


コメント
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