詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八重洋一郎『トポロジィー』

2007-01-27 08:58:47 | 詩集
 八重洋一郎『トポロジィー』(澪標、2007年01月10日発行)。
 「0」から始まり「∞」までの断章で構成されている。その「27」。

わきだすいずみのさざなみよりも
やわらかくそとへそとへと
ひらいていくはなびら
世界をまき込みまき込み中心へ中心へといざなう
はなびら
どっちがどっち? ふるえる
バランス

 「どっちがどっち?」。この、わからないことのなかに「詩」がある。なぜわからないかといえば、それは「同時」に起きていることがらだからである。何もかもが「同時」あるいは「同等」。こういう視点が随所にある。たとえば「9」。

同時に「0」と「1 」である量子
スーパー・コンピューターの一億倍の速さで計算するが
その答えは
同時に「1」と「0」である
かも? なんと楽しい計算機

 あるいは「11」の書き出し。

あらゆるはしっこがあらゆる中心
あらゆる中心があらゆるはしっこ

 さらには「51」の冒頭。

爆発は求心力

 え? そんなことありえないでしょう。矛盾しているよ。そう言いたくなる瞬間、この「どっちがどっち?」と問いたくなる瞬間を、八重は「なんと楽しい」と楽しんでいる。その楽しみのなかに「詩」がある。
 「矛盾」「どっちがどっち?」と言いたくなる瞬間を「97」では、また別のことばで書き表している。

老人と幼な子
わずかな未来と膨大な過去
膨大な未来とわずかな過去
いいえ
幼な子は無限大のいのちの記憶をせおって
ここにあり
老人は全く未知のはるかな行く手を前に
ここにあり
めぐりあうおぼろな交点

 「交点」。「矛盾」や「どっちがどっち?」のなかでは、二つのものが出会い交わる。その交わる点のその一点で、私たちは何かを見失なう。そして私以外のものを発見し、一瞬の幻かもしれないけれど、その私以外のものになってしまう。それが楽しい。「交点」も「どっちがどっち?」も、私を閉じ込めるのではなく、逆に私を解放する。解き放つ。一瞬にして、理性も感性も爆発して、それまでの自分自身ではなくなる。「私」の「ビッグバン」である。「爆発は求心力」と八重は書いているが、爆発し、自分ではなくなってしまうことによって、自分が何であったかわかるのである。爆発した瞬間に中心がなんであったかわかるのである。
 八重はあらゆる瞬間にあらゆるものになる。トカゲにもなれば大ワニにもなるし、虹にも星雲にも砂にも風にも翡翠にもなる。「頭脳」は「肉体」になって輝き、世界に満ちる。それって本当に「肉体」? 「頭脳」じゃないの? あるいは「頭脳が肉体と判断しているもの」じゃないの? どっちがどっち?
 どっちがどっちでもいいのである。どっちがどっち?とわからなく瞬間が増えれば増えるほど世界は豊かになる。いろいろな見方ができる。いろいろ見方ができるということは、それだけ自分の可能性が広がるということだ。

 矛盾したものが交わる一点を探し、そこでビッグバンを繰り返し続けるエネルギーに満ちた詩集である。混沌の美しさ、楽しさ、ほがらかさに満ちた詩集である。読むとからなず若返る詩集である。

コメント
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