詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田實『もう 誰も問わない』

2007-01-12 14:12:12 | 詩集
 池田實『もう 誰も問わない』(ふらんす堂、2007年1月1日発行)。
 読んでも読んでも何が書いてあるのかわからなかった。書いてあることばの意味はわかるのだが、こころに落ちてこない。頭の上をことばが通りすぎていく感じがする。なぜだろう、と思いながら読み進めて、96ページ、「配達不能郵便」に出会う。

朝のテーブルに着くと
 たまごどうする スクランブル? 目玉? 温泉?
いつものように声が飛んできて
私は 一瞬 思案し
温泉 と応える
私は言葉で語られる声を
自分の言葉で聞いている しかし
声は声であって 言葉ではない
声が危うくぶら下げている言葉を切り取り
宛先不明のポストに投函する

 「声は声であって 言葉ではない」に跳び上がるほど驚く。そうか、池田は「声」を聞かないのか。「言葉」(意味)を聞くのか。朝の卵の料理方法をどうするか、というような日常の場でも意味としての言葉を発するのか、と驚くのである。
 私の場合、こんなとき、「言葉」など聞かない。ただ「声」を聞いている。「スクランブル? 目玉? 温泉?」というのは「言葉」なんかではない。そこには「意味」はない。単なる音だ。声だ。というより、もし「意味」があるとすれば、「スクランブル? 目玉? 温泉?」という3種類の区別に「意味」があるのではなく、そのとき3種類も調理方法を羅列するときの連れ合い(?)の声にこそ「意味」がある。毎朝、こんなことをいちいち聞かないといけないなんて、めんどうくさいなあ、あるいは毎朝、こんなふうにして何が好きか聞くのは楽しいなあ。ことばになっていない「めんどうくさいなあ」「楽しいなあ」こそが、朝の日常の「意味」である。それは「声」のなかにある。ことばにされなかったもののなかにこそ「意味」がある。
 たぶん池田と私では「言葉」(ことば)と「声」の持っている重要性が逆なのだ。池田は言葉に意味があり、言葉を相手に伝えようとしている。私は逆にことばに意味があるとは思わない。声に意味があると思う。声で充分意味は伝えられるし、本当は声でしか伝えられないのに、わたしたちは無理をしてことばのなかに「意味」を押し込めようとしている。

 「声」に関することばはさらにつづく。池田は野鳥の声を聞く。真似てみる。

(ピーッ ピーッ ルルー ルルー ツーピー ツーピー……)
しかしそれは私の声ではない(私には固有の声はない
私は自分の言葉にコピーした鳥の声を聞いている

 驚愕としか言いようがない。ほんとうに池田はこんなふうに感じるのか。こんなふうに感じるのが普通で、私が異常なのか。
 私がもし鳥の声を真似て、そのあと何か言うとしたら、池田とはまったく逆のことを言うだろう。「しかしそれは私の声ではない。私には私の固有の声しかない。私は自分の声に(声で、と私は言うと思うが)コピーした鳥の言葉を聞いている。」つまり、鳥の声を自分の声でコピーすることで、その声のなかに隠れている意味、きょうは天気がよくてたのしいなあ、変な男が通っていくぞ、気をつけろなどという会話を聞いている。そうして、そうか、鳥の声にも明るさや暗さ、やわらかさ、厳しさがあって、それは人間の声にも似ているかな……と想像をふくらませる。つまり、かってに意味をでっちあげてわかったつもりになる。「声」をとおして、私はだれか(何か)と理解し合ったつもり、「意味」を共有したつもりになる。それは「言葉」をとおしてではない。
 私には池田の詩は理解できないなあ、という結論に達してしまう。

 ところが。
 池田の詩は思いがけない展開をする。

私は彼らの名前を知りたい(言葉自体の彼らを知りたい
--思考が入り込む--
    (インターネットの図鑑で野鳥の姿と声を調べる
私は野鳥の声に名前を貼り付ける
〈ツーピー ツーピー……ジュク ジュク……--シジュウカラ
--紺色の頭部 白い顎と腹部 鶯色の背羽根……
詩を読むとはこんなことかも知れない
--言葉の中に声を探して思考する
--詩作と思索の背中合わせの遠い親しさで書かれた言葉の声を探す
   (谷内注 「シジュウカラ」は原文は線で囲まれている。)

 鳥の声から鳥の名前を見つけ出すことが「言葉の中に声を探し出し思考する」こととどうつながっているのか私にはさっぱりわからないが、そのことを別にすれば、今引用した最後の2行は、実は、私のめざしていることがらである。私は、池田が書いているように端的には書けないが、いつも「声」を探して詩を読んでいる。その人固有の声、固有すぎてその人には固有という意識すらないだろう声を探して、その声に共感できたとき、その詩が好きになる。たとえば谷川俊太郎の「女に」の中に一回だけ出てくる「少しずつ」。そこに谷川の「声」を聞く。「思想」を感じる。言葉としてではなく、声、というより、肉体そのものとして。(このことは『詩を読む 詩をつかむ』に書いたので省略。)
 私にとっては、ことばにならなかったもの、いや、ことばになろうとしてなりきれない声そのものが大切だ。「言葉」などほんとうは読みたくない。「声」を聞きたいだけなのだ。やさしい声であっても悲しい声であっても怒る声であってもいい。声に触れたときだけ、私は、その詩人が好きになる。

 池田に「声」があるとすれば、たぶんそれは肉体が聞き取る声、「耳」から入ってきてこころに落ちる声ではなく、「頭脳の声」なのだろう。それはこころから遠い場所、頭脳の中だけで響いている声かもしれない。たとえば「道標で」。

私は危うく時間も存在も喪いかけている
(略)
私の肉体と精神が存在と時間に
引きちぎられるような恐怖感でもある

 この「恐怖感」は私の耳にはまったく響いてこない。犬の「キャイン、キャイーン」と遠くで泣いている声さえ、姿が見えなくても、あ、犬が怖がっているという感じがわかるのに、「ことば」で「こわいよ」と言っているわけでもないのに、その恐怖感がわかるのに、池田の書いている「恐怖感」がわからない。
 耳を封印し、「肉体」ということばがあっても、それは私のからだとは無関係の「肉体」と「頭で定義された何か」だと仮定し、ただ「頭の中」だけで思考しなければならないのだろう。
 池田の詩は、頭脳と思考の詩なのである。池田の言葉は頭脳と思考に働きかける詩なのである。私のような読み方では池田の詩は理解することができない。ほかの詩人たちは池田の作品をどんなふうに読んでいるのかなあ、とふと思った。
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呉美保監督「酒井家のしあわせ」

2007-01-12 00:31:19 | 映画
監督・脚本 呉美保 出演 森田直幸、友近、ユースケ・サンタマリア、鍋本凪々美

 「あほ」の映画である。
 「あほ」とは「なんでや」と一対のものである。「なんで、そんなことせんならんのや、あほ」。わかっている。わかっていても、そうせずにはいられない。矛盾である。矛盾しているから、そこに「思想」がある。
 この矛盾を「頭」で解決しようとしてあれこれ苦戦するのが「ばか」である。
 「あほ」はそれを「頭」で解決しようとしない。体(肉体)で受け止める、というか、「あほ」のまま「生きているから、それでいいじゃないか」と、受け流す。矛盾を解決せずに、矛盾と共存する。いっしょに生きる。それは家族がいがみ合いながら(矛盾を、いがみあい、対立と言い換えてみよう)、それでもいっしょに生きて、いっしょに生きているうちになんとなく、家族っていいなあ、と思うようになる。そんな具合に、「いっしょ」というものを「頭」ではなく、肉体そのもので生きる。
 ユースケ・サンタマリア演じる父は「ばか」である。「頭」で問題の解決方法を考え、「頭」で行動する。「頭」のいい人間は、「ばか」である。それを森田直幸演じる息子が「ばか」に引き戻す。
 「頭」のいい人間は、たとえば「愛している」ということは聞かなくても理解できるので、「愛している」と言わなくても、相手につたわると考える。「ばか」である。「頭」の悪い人間は、「愛している」なんて言ったところで通じるかどうかわからないし、行動(肉体を動かす--たとえば、病院へ見舞いに行く)するしかほかに「愛している」とつたえる方法を知らない。「あほ」である。ことばでうまく説明できないから、ともかく体と体を接近させる。ぶつける。怒る。泣く。わめく。
 「なんで泣くんや、あほ」。
 そう言いながら、体がつたえてくるものを体で受け止める。森田直幸が「父さんに会いにゆこう、父さん死んでしまうんや」と友近演じる母に泣いて訴えるシーンである。そして友近が森田直幸を抱き締めるシーンのことである。このとき友近がはっきり受け止めているのは、ことばというより、泣いて訴える森田直幸の体である。ふたりは「頭」で動いていない。肉体で動いている。だから、それが映像になると、とても美しい。映像は「頭」のなかなど映し出さない。あくまで、そこに動いている肉体を映し出すのである。

 もうひとつ、非常に美しい「あほ」がある。ラストシーン。森田直幸が女の子から振られる。女の子の新しいボーイフレンドは森田直幸の親友である。引っ越しのその日に、森田直幸はそのことを打ち明けられる。なんと女の子から花束までもらって、「うーん、この子はおれのことがほんとうに好きなんや」と思っている矢先にである。この「ばか」なできごとを、ユースケ・サンタマリアが笑うことで「あほ」にかえる。息子のばかげた失恋をあほな失恋にかえる。「なんや、おまえ、相手と会っていて(体を見ていて)、そこから何も気づかんかったんか。あほやなあ」というわけである。「笑うことではない」と言いながら、友近も笑いはじめる。
 そして。
 森田直幸はジャージーのファスナーを上にあげて、顔を半分隠して、やはりつられて笑ってしまう。「ほんまに、あほやなあ」。
 「あほ」は肉体である。だからジャージーのファスナーをあげる。顔を隠す。しかし、隠しても隠してもそこにあるのが肉体である。口元を隠しても、目が笑っている。ほんとうに美しい。絶品である。



 感想が前後するのだけれど……。
 「あほ」と「ばか」は関西弁と標準語(東京語?)の違いでもあるのだが、「あほ」を関西弁を話す森田直幸や友近が担うのに対し、「ばか」を受け持つユースケ・サンタマリアが演じるというのは図式的といえば図式的だが、とてもわかりやすく、またとても効果的である。「ばか」(頭で考える)ユースケ・サンタマリアが「あほ」になる(肉体で反応するようになる)という映画でもあるのだ。



 「あほ」をもう少し補足すれば、日常をそのまま手を加えずにすくいとってきたようなせりふと、日常をそのままスナップのようにとらえるカメラは、とても「あほ」である。切れがなく、どてーっとしている。しかし、それがそのまま「あほ」に合致している。なかには「こどもが親を選べへんのと同じように、親かて、こども選べへんのやで」とか、「(離婚したのは)おじさんも初めて生まれてきたんやで、間違いかてするわな」というようなずっしり重みのあることばもあるが、それはもしかしたら、この映画の唯一の傷かもしれない。すべてわすれていいようなせりふ、何を言っていたか思いだせないせりふだけでできていたら、この映画はもっともっと感動的だったかもしれない。
 とはいうものの、この映画は、私の中でははやくも2007年のベスト1である。この映画を超える作品がでてくるとは想像しにくい。この映画がおもしろくないという人がいたら「ばか」である。はやく「あほ」になりなさい、そう言いたい。



コメント (2)
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