池田實『もう 誰も問わない』(ふらんす堂、2007年1月1日発行)。
読んでも読んでも何が書いてあるのかわからなかった。書いてあることばの意味はわかるのだが、こころに落ちてこない。頭の上をことばが通りすぎていく感じがする。なぜだろう、と思いながら読み進めて、96ページ、「配達不能郵便」に出会う。
「声は声であって 言葉ではない」に跳び上がるほど驚く。そうか、池田は「声」を聞かないのか。「言葉」(意味)を聞くのか。朝の卵の料理方法をどうするか、というような日常の場でも意味としての言葉を発するのか、と驚くのである。
私の場合、こんなとき、「言葉」など聞かない。ただ「声」を聞いている。「スクランブル? 目玉? 温泉?」というのは「言葉」なんかではない。そこには「意味」はない。単なる音だ。声だ。というより、もし「意味」があるとすれば、「スクランブル? 目玉? 温泉?」という3種類の区別に「意味」があるのではなく、そのとき3種類も調理方法を羅列するときの連れ合い(?)の声にこそ「意味」がある。毎朝、こんなことをいちいち聞かないといけないなんて、めんどうくさいなあ、あるいは毎朝、こんなふうにして何が好きか聞くのは楽しいなあ。ことばになっていない「めんどうくさいなあ」「楽しいなあ」こそが、朝の日常の「意味」である。それは「声」のなかにある。ことばにされなかったもののなかにこそ「意味」がある。
たぶん池田と私では「言葉」(ことば)と「声」の持っている重要性が逆なのだ。池田は言葉に意味があり、言葉を相手に伝えようとしている。私は逆にことばに意味があるとは思わない。声に意味があると思う。声で充分意味は伝えられるし、本当は声でしか伝えられないのに、わたしたちは無理をしてことばのなかに「意味」を押し込めようとしている。
「声」に関することばはさらにつづく。池田は野鳥の声を聞く。真似てみる。
驚愕としか言いようがない。ほんとうに池田はこんなふうに感じるのか。こんなふうに感じるのが普通で、私が異常なのか。
私がもし鳥の声を真似て、そのあと何か言うとしたら、池田とはまったく逆のことを言うだろう。「しかしそれは私の声ではない。私には私の固有の声しかない。私は自分の声に(声で、と私は言うと思うが)コピーした鳥の言葉を聞いている。」つまり、鳥の声を自分の声でコピーすることで、その声のなかに隠れている意味、きょうは天気がよくてたのしいなあ、変な男が通っていくぞ、気をつけろなどという会話を聞いている。そうして、そうか、鳥の声にも明るさや暗さ、やわらかさ、厳しさがあって、それは人間の声にも似ているかな……と想像をふくらませる。つまり、かってに意味をでっちあげてわかったつもりになる。「声」をとおして、私はだれか(何か)と理解し合ったつもり、「意味」を共有したつもりになる。それは「言葉」をとおしてではない。
私には池田の詩は理解できないなあ、という結論に達してしまう。
ところが。
池田の詩は思いがけない展開をする。
鳥の声から鳥の名前を見つけ出すことが「言葉の中に声を探し出し思考する」こととどうつながっているのか私にはさっぱりわからないが、そのことを別にすれば、今引用した最後の2行は、実は、私のめざしていることがらである。私は、池田が書いているように端的には書けないが、いつも「声」を探して詩を読んでいる。その人固有の声、固有すぎてその人には固有という意識すらないだろう声を探して、その声に共感できたとき、その詩が好きになる。たとえば谷川俊太郎の「女に」の中に一回だけ出てくる「少しずつ」。そこに谷川の「声」を聞く。「思想」を感じる。言葉としてではなく、声、というより、肉体そのものとして。(このことは『詩を読む 詩をつかむ』に書いたので省略。)
私にとっては、ことばにならなかったもの、いや、ことばになろうとしてなりきれない声そのものが大切だ。「言葉」などほんとうは読みたくない。「声」を聞きたいだけなのだ。やさしい声であっても悲しい声であっても怒る声であってもいい。声に触れたときだけ、私は、その詩人が好きになる。
池田に「声」があるとすれば、たぶんそれは肉体が聞き取る声、「耳」から入ってきてこころに落ちる声ではなく、「頭脳の声」なのだろう。それはこころから遠い場所、頭脳の中だけで響いている声かもしれない。たとえば「道標で」。
この「恐怖感」は私の耳にはまったく響いてこない。犬の「キャイン、キャイーン」と遠くで泣いている声さえ、姿が見えなくても、あ、犬が怖がっているという感じがわかるのに、「ことば」で「こわいよ」と言っているわけでもないのに、その恐怖感がわかるのに、池田の書いている「恐怖感」がわからない。
耳を封印し、「肉体」ということばがあっても、それは私のからだとは無関係の「肉体」と「頭で定義された何か」だと仮定し、ただ「頭の中」だけで思考しなければならないのだろう。
池田の詩は、頭脳と思考の詩なのである。池田の言葉は頭脳と思考に働きかける詩なのである。私のような読み方では池田の詩は理解することができない。ほかの詩人たちは池田の作品をどんなふうに読んでいるのかなあ、とふと思った。
読んでも読んでも何が書いてあるのかわからなかった。書いてあることばの意味はわかるのだが、こころに落ちてこない。頭の上をことばが通りすぎていく感じがする。なぜだろう、と思いながら読み進めて、96ページ、「配達不能郵便」に出会う。
朝のテーブルに着くと
たまごどうする スクランブル? 目玉? 温泉?
いつものように声が飛んできて
私は 一瞬 思案し
温泉 と応える
私は言葉で語られる声を
自分の言葉で聞いている しかし
声は声であって 言葉ではない
声が危うくぶら下げている言葉を切り取り
宛先不明のポストに投函する
「声は声であって 言葉ではない」に跳び上がるほど驚く。そうか、池田は「声」を聞かないのか。「言葉」(意味)を聞くのか。朝の卵の料理方法をどうするか、というような日常の場でも意味としての言葉を発するのか、と驚くのである。
私の場合、こんなとき、「言葉」など聞かない。ただ「声」を聞いている。「スクランブル? 目玉? 温泉?」というのは「言葉」なんかではない。そこには「意味」はない。単なる音だ。声だ。というより、もし「意味」があるとすれば、「スクランブル? 目玉? 温泉?」という3種類の区別に「意味」があるのではなく、そのとき3種類も調理方法を羅列するときの連れ合い(?)の声にこそ「意味」がある。毎朝、こんなことをいちいち聞かないといけないなんて、めんどうくさいなあ、あるいは毎朝、こんなふうにして何が好きか聞くのは楽しいなあ。ことばになっていない「めんどうくさいなあ」「楽しいなあ」こそが、朝の日常の「意味」である。それは「声」のなかにある。ことばにされなかったもののなかにこそ「意味」がある。
たぶん池田と私では「言葉」(ことば)と「声」の持っている重要性が逆なのだ。池田は言葉に意味があり、言葉を相手に伝えようとしている。私は逆にことばに意味があるとは思わない。声に意味があると思う。声で充分意味は伝えられるし、本当は声でしか伝えられないのに、わたしたちは無理をしてことばのなかに「意味」を押し込めようとしている。
「声」に関することばはさらにつづく。池田は野鳥の声を聞く。真似てみる。
(ピーッ ピーッ ルルー ルルー ツーピー ツーピー……)
しかしそれは私の声ではない(私には固有の声はない
私は自分の言葉にコピーした鳥の声を聞いている
驚愕としか言いようがない。ほんとうに池田はこんなふうに感じるのか。こんなふうに感じるのが普通で、私が異常なのか。
私がもし鳥の声を真似て、そのあと何か言うとしたら、池田とはまったく逆のことを言うだろう。「しかしそれは私の声ではない。私には私の固有の声しかない。私は自分の声に(声で、と私は言うと思うが)コピーした鳥の言葉を聞いている。」つまり、鳥の声を自分の声でコピーすることで、その声のなかに隠れている意味、きょうは天気がよくてたのしいなあ、変な男が通っていくぞ、気をつけろなどという会話を聞いている。そうして、そうか、鳥の声にも明るさや暗さ、やわらかさ、厳しさがあって、それは人間の声にも似ているかな……と想像をふくらませる。つまり、かってに意味をでっちあげてわかったつもりになる。「声」をとおして、私はだれか(何か)と理解し合ったつもり、「意味」を共有したつもりになる。それは「言葉」をとおしてではない。
私には池田の詩は理解できないなあ、という結論に達してしまう。
ところが。
池田の詩は思いがけない展開をする。
私は彼らの名前を知りたい(言葉自体の彼らを知りたい
--思考が入り込む--
(インターネットの図鑑で野鳥の姿と声を調べる
私は野鳥の声に名前を貼り付ける
〈ツーピー ツーピー……ジュク ジュク……--シジュウカラ
--紺色の頭部 白い顎と腹部 鶯色の背羽根……
詩を読むとはこんなことかも知れない
--言葉の中に声を探して思考する
--詩作と思索の背中合わせの遠い親しさで書かれた言葉の声を探す
(谷内注 「シジュウカラ」は原文は線で囲まれている。)
鳥の声から鳥の名前を見つけ出すことが「言葉の中に声を探し出し思考する」こととどうつながっているのか私にはさっぱりわからないが、そのことを別にすれば、今引用した最後の2行は、実は、私のめざしていることがらである。私は、池田が書いているように端的には書けないが、いつも「声」を探して詩を読んでいる。その人固有の声、固有すぎてその人には固有という意識すらないだろう声を探して、その声に共感できたとき、その詩が好きになる。たとえば谷川俊太郎の「女に」の中に一回だけ出てくる「少しずつ」。そこに谷川の「声」を聞く。「思想」を感じる。言葉としてではなく、声、というより、肉体そのものとして。(このことは『詩を読む 詩をつかむ』に書いたので省略。)
私にとっては、ことばにならなかったもの、いや、ことばになろうとしてなりきれない声そのものが大切だ。「言葉」などほんとうは読みたくない。「声」を聞きたいだけなのだ。やさしい声であっても悲しい声であっても怒る声であってもいい。声に触れたときだけ、私は、その詩人が好きになる。
池田に「声」があるとすれば、たぶんそれは肉体が聞き取る声、「耳」から入ってきてこころに落ちる声ではなく、「頭脳の声」なのだろう。それはこころから遠い場所、頭脳の中だけで響いている声かもしれない。たとえば「道標で」。
私は危うく時間も存在も喪いかけている
(略)
私の肉体と精神が存在と時間に
引きちぎられるような恐怖感でもある
この「恐怖感」は私の耳にはまったく響いてこない。犬の「キャイン、キャイーン」と遠くで泣いている声さえ、姿が見えなくても、あ、犬が怖がっているという感じがわかるのに、「ことば」で「こわいよ」と言っているわけでもないのに、その恐怖感がわかるのに、池田の書いている「恐怖感」がわからない。
耳を封印し、「肉体」ということばがあっても、それは私のからだとは無関係の「肉体」と「頭で定義された何か」だと仮定し、ただ「頭の中」だけで思考しなければならないのだろう。
池田の詩は、頭脳と思考の詩なのである。池田の言葉は頭脳と思考に働きかける詩なのである。私のような読み方では池田の詩は理解することができない。ほかの詩人たちは池田の作品をどんなふうに読んでいるのかなあ、とふと思った。