渡邉十糸子「春愁」、田辺芙美子「夜の頁に」(「泉」63、2007年04月01日発行)。
渡邉十糸子(谷内注・「十糸子」の「糸」は糸がふたつが正しい)「春愁」はどことも知れぬ国のことを描いている。寓話である。
「紐をむすぶ/紐をむすびなおす」の「なおす」がいい。ここに詩がある。「なおす」のは不具合を感じて、それをととのえようとするからである。そのあることを感じ、それをただす、しかも同じことを繰り返してととのえる。同じことしかできない。そこにたしかに春の愁いの「ねっこ」があるかもしれない。
「なおす」は形をかえて、もっとおもしろく書かれる。2連目の後半。
ふいにあらわれる「砂糖水」。これは何か。3連目にもう一度登場する。
体の不調を「砂糖水」(甘いもの)によって主人公である男は「なおす」、なおそうとしている。ととのえようとしている。
このととのえなおすという意識が、「したはらに疼く」の「疼く」によって、よみがえる。なおさなければならないものがある、そういうものを「したはら」にかかえこんでいる。そのことを思い出させる。
こういうていねいなことばの動きが私は好きだ。
詩は最後にもう一度「なおす」を繰り返して終る。「技法」といえば「技法」なのだが、うるさくなるまえに終っているのもいい。
*
田辺芙美子「夜の頁に」は書き出しに惹かれた。
「影が失せてゆく」。しかし、これは光にかき消されてのことではない。影よりも暗いものが影の存在の意味を奪ってゆくのである。影が大きくなって闇になるのではなく、闇が影の存在価値を奪ってゆく。そういう微妙な「価値」(意味)の変化を追い続ける姿勢がこの2行に凝縮している。
渡邉十糸子(谷内注・「十糸子」の「糸」は糸がふたつが正しい)「春愁」はどことも知れぬ国のことを描いている。寓話である。
紐をむすぶ
紐をむすびなおす
うらうらとものうい
春分の朝である
「紐をむすぶ/紐をむすびなおす」の「なおす」がいい。ここに詩がある。「なおす」のは不具合を感じて、それをととのえようとするからである。そのあることを感じ、それをただす、しかも同じことを繰り返してととのえる。同じことしかできない。そこにたしかに春の愁いの「ねっこ」があるかもしれない。
「なおす」は形をかえて、もっとおもしろく書かれる。2連目の後半。
それはすでに決まったことで
決まっていることが
春の
曇天の
陰りをさらにすこし深めている
卓におちる
濃すぎる砂糖水の
うごめく影のように
ふいにあらわれる「砂糖水」。これは何か。3連目にもう一度登場する。
溶けきれない砂糖水がしたはらで疼く
体の不調を「砂糖水」(甘いもの)によって主人公である男は「なおす」、なおそうとしている。ととのえようとしている。
このととのえなおすという意識が、「したはらに疼く」の「疼く」によって、よみがえる。なおさなければならないものがある、そういうものを「したはら」にかかえこんでいる。そのことを思い出させる。
こういうていねいなことばの動きが私は好きだ。
紐をむすびなおす
詩は最後にもう一度「なおす」を繰り返して終る。「技法」といえば「技法」なのだが、うるさくなるまえに終っているのもいい。
*
田辺芙美子「夜の頁に」は書き出しに惹かれた。
陽はすでに没し影が失せてゆく
読みつづける本の頁が夜を浸しはじめる
「影が失せてゆく」。しかし、これは光にかき消されてのことではない。影よりも暗いものが影の存在の意味を奪ってゆくのである。影が大きくなって闇になるのではなく、闇が影の存在価値を奪ってゆく。そういう微妙な「価値」(意味)の変化を追い続ける姿勢がこの2行に凝縮している。