詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡邉十糸子「春愁」、田辺芙美子「夜の頁に」

2007-04-08 11:44:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 渡邉十糸子「春愁」、田辺芙美子「夜の頁に」(「泉」63、2007年04月01日発行)。
 渡邉十糸子(谷内注・「十糸子」の「糸」は糸がふたつが正しい)「春愁」はどことも知れぬ国のことを描いている。寓話である。

紐をむすぶ
紐をむすびなおす
うらうらとものうい
春分の朝である

 「紐をむすぶ/紐をむすびなおす」の「なおす」がいい。ここに詩がある。「なおす」のは不具合を感じて、それをととのえようとするからである。そのあることを感じ、それをただす、しかも同じことを繰り返してととのえる。同じことしかできない。そこにたしかに春の愁いの「ねっこ」があるかもしれない。

 「なおす」は形をかえて、もっとおもしろく書かれる。2連目の後半。

それはすでに決まったことで
決まっていることが
春の
曇天の
陰りをさらにすこし深めている
卓におちる
濃すぎる砂糖水の
うごめく影のように

 ふいにあらわれる「砂糖水」。これは何か。3連目にもう一度登場する。

溶けきれない砂糖水がしたはらで疼く

 体の不調を「砂糖水」(甘いもの)によって主人公である男は「なおす」、なおそうとしている。ととのえようとしている。
 このととのえなおすという意識が、「したはらに疼く」の「疼く」によって、よみがえる。なおさなければならないものがある、そういうものを「したはら」にかかえこんでいる。そのことを思い出させる。
 こういうていねいなことばの動きが私は好きだ。

紐をむすびなおす

 詩は最後にもう一度「なおす」を繰り返して終る。「技法」といえば「技法」なのだが、うるさくなるまえに終っているのもいい。



 田辺芙美子「夜の頁に」は書き出しに惹かれた。

陽はすでに没し影が失せてゆく
読みつづける本の頁が夜を浸しはじめる

 「影が失せてゆく」。しかし、これは光にかき消されてのことではない。影よりも暗いものが影の存在の意味を奪ってゆくのである。影が大きくなって闇になるのではなく、闇が影の存在価値を奪ってゆく。そういう微妙な「価値」(意味)の変化を追い続ける姿勢がこの2行に凝縮している。


コメント
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