詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

くらもち さぶろう「かぜ にわ くち が ない」

2007-04-13 22:40:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 くらもち さぶろう「かぜ にわ くち が ない」(「ガニメデ」39、2007年04月01日発行)。
 くらもちには世界がどんなふうに見えているのだろう。世界の存在がすべて溶け合って見えているのだと思う。そして、溶け合っているけれど、常に、その瞬間瞬間において個別の形をとろうとしている。
 「かぜ にわ くち が ない」の書き出し。

かぜ わ
ひくい いえ の やね を こえて
たかい ビル の
わき を すりぬける
ひふ を すりむく こと も なく

 最初は風しかない。風が世界の始まりとして存在する。その風が動くと、低い家が生まれる。屋根が見えてくる。さらに動いてビルがあらわれる。ビルの「わき」があらわれる。くらもちは風の動きを見ているだけではない。風そのものになって動いている。それだけではない。動きながら、同時にビルにもなっている。ビルの「わき」。「すりぬける」。それは、両方ともくらもちなのである。ビルの「わき」であると同時に、そこをすりぬける風。あるいは風がすりぬけることによってはじめて意識されるビルの「わき」。その肉体感覚。それに刺激されて、ふいに皮膚感覚が目をさます。「ひふ を すりむく こと も なく」。
 風はもちろん肉体ではない。けれどもくらもちには肉体があるから、彼が風を見つめ、風になるときには、どうしてもそこに肉体が紛れ込む。風と肉体が一体になり、そこから世界がはじまる。世界は、くらもちにとって肉体でもある。くらもちの肉体が世界でもある。それは区別がつかない。区別がつかないものであるけれど、瞬間瞬間には別個の存在として、今、ここ、に存在する。

あたたかい ち の ながれる
ほお に キス する
くろい かみ を なでる
でも かぜ にわ くち が ない から
いやがる ひと わ いない
かぜ にわ て が ない から
さわった と いって おこる ひと わ いない

 風--肉体としての風は、「いやがる」「おこる」という感情にもなる。この変化も、とてもおもしろい。肉体は肉体であるとは言えない。肉体はあるときは肉体としか見えないけれど、別の瞬間には感情そのものでもある。世界のあらゆる存在、肉体、感情は、溶け合っている。そして、その溶け合った世界から、何かが、瞬間瞬間、独立して浮かび上がる。
 しかし、これは独立というものではないかもしれない。
 あるひとつとして浮かび上がることで、世界を深める。立体的にする。明確にする。なんといえばいいのか私にはまだわからないけれど、浮かび上がった一つ一つの事柄が、世界そのもののなかへ私たちを導いてくれる。
 くらもちのことばには不思議な往復運動が隠されている。溶け合った世界からことば(ことがら)が浮かび上がり、同時に、その浮かび上がったことがらが私たちをもう一度すべてが溶け合った世界--始原の世界へと誘い込む。その誘い込みにしたがってくらもちのことばを追いかけるとき、私たちの内部で世界がはじまる。

 くらもちのことばは「分かち書き」によってばらばらに存在しているように見える。「かぜ わ」の「わ」のように日本語の正字法に反した表記もある。「わ」は「音」として意味から切り離されている。そこに特徴的にあらわれていることだが、くらもちは「意味」と「ことば」をひきはなしてしまう。「ことば」そのものとして独立させてしまう。この独立は「解放」ととらえなおすとき、くらもちのやっていることがいっそう明確になるかもしれない。
 世界は、そして世界に「流通」していることばは「意味」によって(あるいは「価値」によって)、しばりつけられている。それをくらもちは切り離す。ばらばらにする。「意味」から解放されて、ことばは混じり合う。存在は溶け合う。なんのつながりもないことば、存在、ことがらが自在に飛び回っている。その自在な動きのなかに、世界そのもののエネルギーのようなもの、自在な動きそのものをささえる何かが、たとえば肉体感覚(皮膚感覚)、感情が、今までなかった動きを獲得する。それが「詩」だ。

 ことばを縛りつけ、あるいはねじまげ、そこから生まれる力を利用して突き進む詩がある。一方で、くらもちのようにことばをただひたすら解放することで、そこからはじまる世界にかけようとする詩もある。


コメント
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