詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督「バベル」

2007-04-30 19:38:27 | 映画
監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 ケイト・ブランシェット、菊地凛子、アドリアナ・バラザ

 菊地凛子がとてもすばらしい。友人たちといっしょにいるときの仲間に溶け込んだ顔と、たったひとりに帰るときの孤独な顔。その落差が、気持ちがことばにならない、思いがことばにならない苦悩と重なる。肉体、女であることを武器に自分の気持ちを伝えようとするが、それもうまくゆかない。肉体の接触にもことばが不可欠なのだ。そのことに菊地凛子の演じる女子高校生は気がついていない。その気がついていない幼さと苦しみがあふれている。菊地凛子がいなければ、この映画は成り立っていたかどうかわからない。
 アドリアナ・バラザもすばらしい。自分の思いとは違うものにふりまわされる。他人が彼女の思いを無視して彼女をひっぱってゆく。それに抗い、自分の思い通りに行動したいが、すべてのことばが拒絶される。太った肉体が苦悩をため込んでさらに膨れ上がる感じがすごい。焦燥感がすばらしい。
 ケイト・ブランシェットもすばらしい。途中からはほとんど動きのない役なのだが、肉体の痛みの中でことばがうごめく。悲しみでも、怒りでも、絶望でもなく、自分の肉体に起きていることをつたえる日常的なことば--それがきっかけでブラッド・ピットと会話を取り戻すシーンがすごい。

 カメラもすばらしい。あらゆるシーンが「物語」から独立し、それぞれに動いてゆく。「物語」に従属しない。東京では菊地凛子がブランコで遊ぶシーン、それにつづく一連のシーンが生々しい。個人とは別に、「場」という主役があることを明確にする。
 モロッコのシーンは「物語」に流れそうなのだが、最後のヘリコプターでケイト・ブランシェットを運び出すシーンは演技(演出)とは思えないほどリアルにカメラの位置をつたえている。ケイト・ブランシェットとブラット・ピットの思いとは無関係に動く「場」というものがある、群衆がいるということを、カメラがリアルに切り取る。群衆が演技をするというよりカメラが演技をする。カメラはもうひとりの演技者であるということを感じさせてくれる。
 音楽は少し過剰かもしれない。もっと控え目に、映像自身がもっている「音」を引き出す工夫があってもよかったのではないか、と思う。すばらしいカメラの演技が音楽のでしゃばりによって無残に削り取られてゆくという印象が残った。

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入沢康夫と「誤読」(メモ9)

2007-04-30 09:59:07 | 詩集
 入沢康夫『古い土地』(1961年)。
 「死んだ男」。「私たちは二人だった、わたしはそれをはつきり言える--マラルメ「散文--」というサブタイトルが付いている。「私たちは二人だった」を私は「私は二人だった」と読み違えてしまった。「私たち」の「たち」は複数を含んでいる。「私たち」が「二人」か「三人」か、あるいはそれ以上か。そうした複数の中の、最小の数が「二人」なのだが、ほんとうに複数の数を前提としているのか。「二人」ということばにさそわれて「私」が「私たち」になるということはないのだろうか。入沢の作品を読むと、そうした印象がいっそう強くなる。
 一連目の書き出し。

類似は第二の類似を生む
彼女が捨てようとしたのはひとにぎりの種子である

 ずーっと進んで4行の空白のあとにはじまる連の書き出し。

類似は第二の類似を生む
水の涸れた河床で彼が目をさましたとき
彼は痺れた夢の中空に
消えていく十二の宇宙を数える

 書き出しはぴったり重なる。そして、「彼女」であった存在が「彼」にかわる。「彼女」と「彼」は「私たち(二人)」なのか。私には「彼女」と「彼」は一人に感じられる。一人の人間の複数の内面(あるいは外面)。複数にひっぱられて「私」が「私たち」になっているように感じられる。
 「彼」の部分に出てくる「十二の宇宙」は「彼女」の詩の最後の部分には、次のように書かれている。

時間の平原の中央に 彼女の歯が埋められる
彼女の遠い唄を犬たちが聞いたはずだ
彼女の旅立ちを鳥たちは見たはずだ
彼女は子宮の形を下十二の宇宙に向つて
自分の夢をちぎりながら歩いていつた

 「彼女」と「彼」のことばは重なり合うのだ。「彼」の1連目にも「犬」と「鳥」が登場する。「時間の平原」という独特のことばも繰り返される。

そして第二の誕生を夜の鳥たちが目撃する
そして彼の紫色の誕生を犬たちが嗅ぎあてる
ずたずたの服をきた彼の肉体が
時間の平原でものすごい閃光をあげる

 「彼女」の部分では「時間の平原」「犬」「鳥」という順序で登場したことばは、「彼」の部分では「鳥」「犬」「時間の平原」という順序で出てくる。「彼女」と「彼」の間にあるものは「鏡」なのだ。「鏡」によって一人の人間が「彼女」と「彼」になっている。「鏡」にうつった存在を見つめて「私たちは二人だった」といっているのがこの詩の構造だ。
 「彼女」と「彼」はもちろん「事実」として「一つ」になりようがない。矛盾を含んでいる。矛盾によってふたつに分裂している。どちらが「事実」で、どちらが「誤読」なのか。

彼女の遠い唄を犬たちが聞いたはずだ
彼女の旅立ちを鳥たちは見たはずだ

 「はずだだ」の「はず」。「彼女」の部分にあって、「彼」の部分にないことばが、この「はず」である。推定、断定。想像力がとらえる世界。「彼女」の世界は想像力によって成り立っているから、「彼女」が「誤読」であり、「彼」が「事実」ということになるかもしれない。
 ただし、だからといって「彼女」の世界を否定することはできない。入沢は「事実」よりも「誤読」を重視している。「誤読」のなかには「気持ち」がある。「はず」ということばが端的に表しているが、その「気持ち」はほとんど「願い」(祈り)である。
 「私」は「事実」を生きると同時に「気持ち」を生きている。「私」はひとりというよりも「二人」である。「私たち」といっていいくらいに、「事実」と「気持ち」はいっしょに存在している。

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