18話のオムニバス。あまりにも断片すぎていて、忙しすぎる。一番おもしろいのは、ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督の部分だ。
ほかの監督が「人生」を描こうとしているのに対し、コーエン兄弟は「人生」を拒否している。「人生」ではなく「日常」を描こうとしている。「人生」は自分の中でつみかさねられる時間である。「日常」は自分と他者との出会いの瞬間に存在する時間であって、それも自分の時間には違いないのだが、ウェートはどうしたって他人に置かれる。人間が生きている「現場」では「私」よりも「他人」の方が圧倒的に数が多いからだ。
主人公はパリの地下鉄で向かい側のホームの若いカップルを目撃する。いちゃいちゃしている。目が合ってしまう。そして「何を見てるんだ」と言いがかりをつけられ殴られる。コーエン兄弟は、このスケッチを、若いカップルと主人公に限定せず、孫をつれた婦人と孫、ホームミュージシャンをも取り込んで描く。主人公の時間は、出会った他人との「1対1」ではなく「1対複数」のなかで分断され「人生」になりえない。どうしようもない。他人のなすがままである。
この感じが旅行者の感覚とぴったり重なる。「旅は人生」などということばがあるが「旅は日常」である。激しく「日常」である。「日常」以外の何物でもない。
主人公にとって「人生」はモナリザの微笑みである。男に殴れたあと、紙バッグ(だったと思う)からルーブルで見たモナリザの絵葉書が無数にこぼれ落ちる。主人公はモナリザを見ることに「人生」の意味を感じていた。しかし、そんな思い込みの「人生」は「日常」で簡単にばらばらにされてしまう。--ここに、人間が生きていることのおもしろさがある。
人は誰でも「人生」を生きている。しかし、その「人生」はいつでも「日常」によって分断される。その瞬間、あなたは、自分のいのちをいとおしく感じますか? 「人生」を分断していった他人を許し、受け入れることができますか? 他者を受け入れることができたとき、たしかに「パリ、ジュテーム」という気持ちが生まれるのだと思う。
「パリ」は他人が他人のまま生きている「日常」の時間でできている。パリにすんだことはないけれど、たしかにそう思う。その感じをコーエン兄弟の作品は笑いのなかに(悲しい笑いのなかに)くっきりと浮かび上がらせている。
他の作品は「人生」を描こうとして、短さにつまずいている。
ほかの監督が「人生」を描こうとしているのに対し、コーエン兄弟は「人生」を拒否している。「人生」ではなく「日常」を描こうとしている。「人生」は自分の中でつみかさねられる時間である。「日常」は自分と他者との出会いの瞬間に存在する時間であって、それも自分の時間には違いないのだが、ウェートはどうしたって他人に置かれる。人間が生きている「現場」では「私」よりも「他人」の方が圧倒的に数が多いからだ。
主人公はパリの地下鉄で向かい側のホームの若いカップルを目撃する。いちゃいちゃしている。目が合ってしまう。そして「何を見てるんだ」と言いがかりをつけられ殴られる。コーエン兄弟は、このスケッチを、若いカップルと主人公に限定せず、孫をつれた婦人と孫、ホームミュージシャンをも取り込んで描く。主人公の時間は、出会った他人との「1対1」ではなく「1対複数」のなかで分断され「人生」になりえない。どうしようもない。他人のなすがままである。
この感じが旅行者の感覚とぴったり重なる。「旅は人生」などということばがあるが「旅は日常」である。激しく「日常」である。「日常」以外の何物でもない。
主人公にとって「人生」はモナリザの微笑みである。男に殴れたあと、紙バッグ(だったと思う)からルーブルで見たモナリザの絵葉書が無数にこぼれ落ちる。主人公はモナリザを見ることに「人生」の意味を感じていた。しかし、そんな思い込みの「人生」は「日常」で簡単にばらばらにされてしまう。--ここに、人間が生きていることのおもしろさがある。
人は誰でも「人生」を生きている。しかし、その「人生」はいつでも「日常」によって分断される。その瞬間、あなたは、自分のいのちをいとおしく感じますか? 「人生」を分断していった他人を許し、受け入れることができますか? 他者を受け入れることができたとき、たしかに「パリ、ジュテーム」という気持ちが生まれるのだと思う。
「パリ」は他人が他人のまま生きている「日常」の時間でできている。パリにすんだことはないけれど、たしかにそう思う。その感じをコーエン兄弟の作品は笑いのなかに(悲しい笑いのなかに)くっきりと浮かび上がらせている。
他の作品は「人生」を描こうとして、短さにつまずいている。