詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョエル・コーエン、イーサン・コーエンほか監督「パリ、ジュテーム」

2007-04-15 15:26:48 | 映画
 18話のオムニバス。あまりにも断片すぎていて、忙しすぎる。一番おもしろいのは、ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督の部分だ。
 ほかの監督が「人生」を描こうとしているのに対し、コーエン兄弟は「人生」を拒否している。「人生」ではなく「日常」を描こうとしている。「人生」は自分の中でつみかさねられる時間である。「日常」は自分と他者との出会いの瞬間に存在する時間であって、それも自分の時間には違いないのだが、ウェートはどうしたって他人に置かれる。人間が生きている「現場」では「私」よりも「他人」の方が圧倒的に数が多いからだ。
 主人公はパリの地下鉄で向かい側のホームの若いカップルを目撃する。いちゃいちゃしている。目が合ってしまう。そして「何を見てるんだ」と言いがかりをつけられ殴られる。コーエン兄弟は、このスケッチを、若いカップルと主人公に限定せず、孫をつれた婦人と孫、ホームミュージシャンをも取り込んで描く。主人公の時間は、出会った他人との「1対1」ではなく「1対複数」のなかで分断され「人生」になりえない。どうしようもない。他人のなすがままである。
 この感じが旅行者の感覚とぴったり重なる。「旅は人生」などということばがあるが「旅は日常」である。激しく「日常」である。「日常」以外の何物でもない。
 主人公にとって「人生」はモナリザの微笑みである。男に殴れたあと、紙バッグ(だったと思う)からルーブルで見たモナリザの絵葉書が無数にこぼれ落ちる。主人公はモナリザを見ることに「人生」の意味を感じていた。しかし、そんな思い込みの「人生」は「日常」で簡単にばらばらにされてしまう。--ここに、人間が生きていることのおもしろさがある。
 人は誰でも「人生」を生きている。しかし、その「人生」はいつでも「日常」によって分断される。その瞬間、あなたは、自分のいのちをいとおしく感じますか? 「人生」を分断していった他人を許し、受け入れることができますか? 他者を受け入れることができたとき、たしかに「パリ、ジュテーム」という気持ちが生まれるのだと思う。
 「パリ」は他人が他人のまま生きている「日常」の時間でできている。パリにすんだことはないけれど、たしかにそう思う。その感じをコーエン兄弟の作品は笑いのなかに(悲しい笑いのなかに)くっきりと浮かび上がらせている。
 他の作品は「人生」を描こうとして、短さにつまずいている。


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入沢康夫と「誤読」(メモ5)

2007-04-15 15:04:48 | 詩集

 『夏至の火』(1958年発行)。
 入沢の詩には「物語」がある。ストーリーがある。ただし結末があるといっていいかどうかはわからない。小説のように主人公の抱えている問題が解決した、という印象を残して詩が終わるわけではない。ただことばが動いてゆく。「物語」があるというよりも、ことばが、「いま」「ここ」から別の世界へ動いてゆく運動があると言い換えた方がいいかもしれない。そのことばを動かしているエネルギーは何だろう。

 「誤読」と類似のことば、「混同」が出てくる作品がある。あるものを別のものと混同したとき誤読ははじまる。その「混同」。
 「犠牲」という作品。書き出しの5行

今日三人の兵士をつれて私は歩いていた 三人の兵士に
つれられて私は歩いていた 空間には赤いスカーフが揺
れ そこここで獣たちが交尾していた 水辺で花火 花
のない地帯で
それは唯一の花の記憶と混同される

 「花火」と「花」の「混同」。こんなことは実際にはありえない。花火は夜。花を見るなら昼。それなのにこの混同に私は「詩」を感じる。「花」ということばが引き起こす錯乱にのみこまれてしまう。
 「花火」は「花」ではない。そう知っていて、人はそれを「花・火」と名づけた。呼んだ。「誤読」はその瞬間にはじまっている。入沢が「誤読」したのではなく、「誤読」は「花火」ということばのなかにあり、ことばのなかにある。これは、そのことばをつかう日本人の意識のなかに「誤読」があるということだ。ぱっと開き輝く何か。その何かはすべて「花」なのだ--という「誤読」を入沢は積極的に受け入れている。受け入れるだけではなく、それを強調もしている。

それは唯一の花の記憶と混同される

 散文形で書かれながら、この1行だけが独立している。その独立した行のなかに「混同」ということばがある。
 そして、この1行には「混同」と同じように「誤読」にとって深い関わりのあることばがある。「記憶」。
 「花火」はそれを見た瞬間に「花」と「混同」されるわけではない。そういうことは実際にはありえない。「混同」されるのは「記憶」のなかにおいてである。「記憶」は直接対象と向き合っていない。「記憶」はことば(イメージ)といっしょにある。今目の前に存在しないものといっしょにある。
 「誤読」は「記憶」のなかにおいて、精神の動きのなかにおいて起きる。「誤読」は肉眼ですることがらではない。肉眼がかかわるにしろ、そのとき肉眼は、「記憶」あるいは精神の動きによって影響を受けている。精神が「誤読」を欲するのだといってもいい。

 精神は目の前にあるものを、事実をそのまま受け入れるとはかぎらない。むしろ受け入れたいように事実をねじまげて受け入れる。書き出しの2行にそのうした精神の動きが描かれている。

今日三人の兵士をつれて私は歩いていた 三人の兵士に
つれられて私は歩いていた

 事実はどちらか一方である。兵士をつれて歩いていたのか。兵士につれられて歩いていたのか。入沢は、ここではそれを特定したくない。なぜ特定したくないのか。特定すれば、「私」の肉眼は兵士と私の関係に支配されて、自由な「誤読」ができないからだ。
 「花火」を「花」と「誤読」するのは、兵士をつれて歩いた私か、兵士につれられて歩いた私か、その判断を読者にまかせたいのだ。「私」の肉眼が「関係」に特定されないがゆえに、視線は自由に動き回る。
 「誤読」は「自由」とどこかで通じ合っている。これが入沢の「詩」の形だ。

 2連目にも印象深いことばがある。

背中を鉛の塊りが圧しつける夏の第一日あるいは春の最
後の昼日中に 円卓はわずかづつ回転して 私と 兵士
らをまざまざと青い鎖でつなぎとめる

 「つなぎとめる」。「誤読」とは何かと何かをつなぎとめることである。本来関係ないものをつなぎとめることから「誤読」ははじまる。「花火」と「花」。ぱっと開いて、ぱっと散る。その運動が「花火」と「花」を「つなぎとめる」とき、「誤読」は成立する。つなぎとめる「もの」、媒介は、人間の精神である。こころである。花火はぱっと開いてぱっと散る。花もまたぱっと開いてぱっと散る。こころが、そういうふうにとらえないかぎり、ふたつはつなぎとめられない。「誤読」されることはない。
 このつなぎとめを、入沢は「まざまざと」ということばで強調している。
 私が兵士をつれて歩いているのか、兵士につれられて私が歩いているのかは判然としない。「まざまざと」は意識されない。そのかわりに、私と兵士とのあいだにあるもの、風景が「まざまざ」と意識される。
 ある存在と存在(人物と人物)の関係が、人間の力関係(?)ではなく、そういうものとは無縁の「風景」によって「つなぎとめ」られる。
 ここにも入沢の作品の重要なポイントがある。
 「私」の意識が世界を構築するのではなく、世界の存在(風景)が、あるいは風景のなかに紛れ込んでいる「日本人の意識」が「私」に働きかけて、その働きかけを受け止めるとき、世界が手触りのあるものとなって立ち現れる。「私」の意識のほかに、「歴史」の意識が作用している。だからこそ「誤読」するのだ。
 「花火」も「花」も入沢がつくりだしたことばではない。すでに存在している。そのことばには、そのことばをつかってきた人間の意識が潜んでいる。そういうものを浮かび上がらせ、同時に積極的に、人間の意識の中へもぐりこみ「誤読」する。それが入沢の詩である。
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