詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木正樹『川に沿って』

2007-04-05 07:35:05 | 詩集
 鈴木正樹『川に沿って』(思潮社、2007年02月20日発行)。
 鈴木正樹が学校の先生だったことをこの詩集で知った。どうやら小学校の先生だったらしい。読みながら疑問に感じたことがある。たとえば、「キラキラ」。

なぜ みちばたの泥水が
キラキラとした氷になるの?

なぜ 軒下のつららが
きらきらとのびていくの?

なぜ 岩だらけの星が
夜空に キラキラ輝くの?

なぜ なぜ なぜ
濁りを棄てたから?
じっと 寒さに耐えたから?
遠く離れた悲しさで?

いえいえ みいんな違う
自分を見つけた水の 笑い
変わろうとする水の 意志
星は?

星に聞いたらね
「燃やし続ける 夢があるから」と
答えて また またたいたよ

 3連目が奇妙だ。最終連とも合致しない。夜空に輝く星は「岩だらけ」ではない。最終連に書かれているように燃えている。太陽のようなものであって、月や金星のようなものではない。岩だらけで、なおかつ光って見える星の数など数えるほどしかない。知っているはずだと思う。知っているのに、なぜ、こんな詩を書いたのだろうか。
 この詩は「卒業生に」というサブタイトルがつけられている。
 餞として書かれたものだ。
 ほんとうに餞の気持ちがあったのだろうか。義務として書いたのではないのか。そんな気持ちが沸き上がってくる。
 この詩を「卒業生」が何年かたって読んだとき、どう思うだろうか。
 「鈴木先生は、キラキラ輝く宇宙の星が岩だらけだと思っていたんだろうか」
 そう思ってもらえるなら、まだいいのだけれど、私が「鈴木先生にならった児童」だったら、そんなふうには思わない。
 「先生、無理して書いたんだね。ほんとうは先生なんかやりたくなかったのかもしれないね」と思ってしまいそうだ。

 もしかすると、鈴木は「なぜ 岩だらけの星が/夜空に キラキラ輝くの?」は鈴木の自問ではなく、児童の質問だと答えるかもしれない。
 そんな答えが返ってくるなら、私はもっともっとこの詩が嫌いになる。
 では、4連目は誰の質問? 児童がほんとうにそんな質問をしたの?
 ほんとうにそんな4連目のような質問をしたとしたら、鈴木先生は5連目のように「みいんな違う」と簡単に言ってしまうのだろうか。
 子どもが大人に質問をするのは「正しい」答えを求めるからではない。「正しい」といってほしいからだ。「よく気がついたね、よく考えたね」と、感じたこと、考えたことのまるごと受け止めてくれる人を子どもはいつでも求めている。
 道端の泥水がキラキラとした氷になる理由に「正しい」答えなどない。「濁りをみんな棄てたから」が間違っているとどうして鈴木に言えたのだろう。鈴木は児童の質問に答えているのではなく、自分の答えをおしつけているのだ。
 答えだけではなく、質問すらも押しつけている。子どもはキラキラしたものが好き。そして、子どもは「なぜ 岩だらけの星が/夜空に キラキラ輝くの?」というような質問をするものだ、とかってにつくりあげている。

 とても嫌な気持ちだ。子どもをこんなふうに踏みにじらないでほしいと思う。もっと子どもの声を真摯に受け止めてほしい。



 もし、「キラキラ」という詩がなかったら、「カンちゃん」は違った輝きで見えたと思う。カンちゃんというひとりの児童の考えときちんと向き合って、そのことばを受け止めようとしている姿がくっきりと見えると思う。(しかし、この「カンちゃん」も最後はどうしたの? カンちゃんのことを守り通したかどうかがよくわからない。)
 「キラキラ」という作品があるために、「ヤエちゃん」もほんとうのことかな?と疑問に思ってしまう。児童を教えるだけではなく、触れ合うことで大人である鈴木が助けられるということは実際にあるはずだけれど、それって、こういうときかな? ほんとうは「カンちゃん」のような詩に出会ったとき、そしてそこからトラブルが起きたときこそ、人間として救われるのではないのかな? そういうことがていねいに書かれていないなあ。なんだか、こころがさらけだされていない、という印象の残る詩集だった。


コメント
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