松尾静明「キャベツの癖」ほか(「鰐組」221 、2007年04月01日発行)。
松尾静明「キャベツの癖」は比喩のなかに人事を持ち込むことで抒情をつくりだす。
「内側」から「外側」への視線の転換。矛盾を凝縮させる方法としての比喩。ちきんとした文体だ。きちんとしていて悪いわけではないのだが、きちんとしすぎているために抒情が予定調和的で、それがすこし窮屈だ。
*
小林尹夫「棲息29」。
同じことばを繰り返す。「楽しみ」「食べる」「流れる」「待つ」「過ぎ去る」。繰り返しのリズムをつくりあげておいて、主語を変化させる。そのとき動詞が「比喩」になる。ことばにならないことばが凝縮して、どこにも存在しなかったことばに。
「とけて流れる。私は石になって流れる。」がとてもおもしろい。
「石」が比喩なのではなく、「流れる」ということが比喩なのである。石はもちろん普通は流れない。とても小さな石か、とてもエネルギーに満ちた流れの場合をのぞいては。小林は「私」を「(ちいさな)石」ととらえているのではなく、何か巨大な「流れ」があるということを隠した形(比喩)で伝えたいのだ。隠した形で--というのは、間違いのない形で、ということである。ことばで正確に書こうとすればするほど、つかったことばの数だけ間違いが増えてゆく。そういうことを避けるために比喩を持ち出し、一気に書きたいことを結晶化したまま投げ出す。その結晶が読者という光線を浴びて、複雑に解体され、その仮定で小林の考えていることが明らかになるのを待っているかのようである。
言いなおそう。
「流れる」--「流れ」は不思議である。
「ごちそうは腐敗し、とけて流れる。」腐敗したものは流れる。「私は石になって流れる。」は「私は腐敗せず、とけることもなく、石のように固い固体のまま流れる。」というのがたぶん普通の読み方だろうと思う。「石」を比喩ととらえて小林の「抒情」を理解するのがたぶん普通の読み方だろうと思う。
しかし、これではつまらないと思う。小林がことばを繰り返している意味がないと思う。「石」ではなく、繰り返されることば、その繰り返しにこそ小林の詩を書く意味があるのだと私は思う。
「ごちそうは腐敗し、とけて流れる」と「私は石になって流れる」では「流れる」の意味が違う。後者は「私は石になって流される」(私は石のように自分を守ったまま流される)ということである。「流される」のは「流れるもの」(流れ)があるからだ。その書かれていない「流れ」そのものに眼を向けてほしくて、小林は「流れる」ということばを繰り返しているのだ。
3連目に「流れる」はもう一度出てくる。
「流れる」は「流れてくる」にかわっている。「流れてくる」の方が「流れる」よりも「流れ」が見える。「流れる」ときは「流れ」そのものを見はしない。「流れる」とは自分が流れるであり、「流れてくる」は自分以外のものが「流れる」のである。「私」を一点に固定させておいた方が「流れ」は見えやすい。
「流れ」。「倫理や論理や論難や」の流れ。
それが見えますか、と小林は問うているようである。どんな「流れ」が世界を作っているか、それを言えますか、と問うているのである。その問いが「私は石になって流れる」と「流れる」のなかにある。繰り返されたことばの、 2度目のことばのなかにある。
おなじようなことが、「楽しみ」「待つ」「過ぎ去る」にも起きているはずである。それをどこまで探してゆくことができるか--それが小林の作品を読むということなのだと思った。
*
仲山清「設計士の帰郷」。
「そう」が書きたかったのだと思う。自分であれこれ考える。その考えを自分で肯定する。ほかに、誰も肯定しないから、自分で自分を肯定するしかないのだ。
肯定するものが自分しかいないということは、「肯定」されたことにはならない。そんなことは知っている。知っていて、それでも「そう」と肯定する。矛盾である。その矛盾のなかに「詩」が結晶している。
松尾静明「キャベツの癖」は比喩のなかに人事を持ち込むことで抒情をつくりだす。
内側へ内側へ主張を巻き込んでいくことが
外側をふくらませるのだと 知っている処世の術(すべ)のことも
「内側」から「外側」への視線の転換。矛盾を凝縮させる方法としての比喩。ちきんとした文体だ。きちんとしていて悪いわけではないのだが、きちんとしすぎているために抒情が予定調和的で、それがすこし窮屈だ。
*
小林尹夫「棲息29」。
食べる、という労働。瞬間の楽しみ。刻々消える楽しみ。
食べなければ、私は幸福も楽しみも得られない。
ごちそうは腐敗し、とてけ流れる。私は石になって流れる。
待つ。待ち続ける。この時間は過ぎ去らず、いのちだけが過ぎ去る。
同じことばを繰り返す。「楽しみ」「食べる」「流れる」「待つ」「過ぎ去る」。繰り返しのリズムをつくりあげておいて、主語を変化させる。そのとき動詞が「比喩」になる。ことばにならないことばが凝縮して、どこにも存在しなかったことばに。
「とけて流れる。私は石になって流れる。」がとてもおもしろい。
「石」が比喩なのではなく、「流れる」ということが比喩なのである。石はもちろん普通は流れない。とても小さな石か、とてもエネルギーに満ちた流れの場合をのぞいては。小林は「私」を「(ちいさな)石」ととらえているのではなく、何か巨大な「流れ」があるということを隠した形(比喩)で伝えたいのだ。隠した形で--というのは、間違いのない形で、ということである。ことばで正確に書こうとすればするほど、つかったことばの数だけ間違いが増えてゆく。そういうことを避けるために比喩を持ち出し、一気に書きたいことを結晶化したまま投げ出す。その結晶が読者という光線を浴びて、複雑に解体され、その仮定で小林の考えていることが明らかになるのを待っているかのようである。
言いなおそう。
「流れる」--「流れ」は不思議である。
「ごちそうは腐敗し、とけて流れる。」腐敗したものは流れる。「私は石になって流れる。」は「私は腐敗せず、とけることもなく、石のように固い固体のまま流れる。」というのがたぶん普通の読み方だろうと思う。「石」を比喩ととらえて小林の「抒情」を理解するのがたぶん普通の読み方だろうと思う。
しかし、これではつまらないと思う。小林がことばを繰り返している意味がないと思う。「石」ではなく、繰り返されることば、その繰り返しにこそ小林の詩を書く意味があるのだと私は思う。
「ごちそうは腐敗し、とけて流れる」と「私は石になって流れる」では「流れる」の意味が違う。後者は「私は石になって流される」(私は石のように自分を守ったまま流される)ということである。「流される」のは「流れるもの」(流れ)があるからだ。その書かれていない「流れ」そのものに眼を向けてほしくて、小林は「流れる」ということばを繰り返しているのだ。
3連目に「流れる」はもう一度出てくる。
上(かみ)から、倫理や論理や論難やが、流れてくる。
「流れる」は「流れてくる」にかわっている。「流れてくる」の方が「流れる」よりも「流れ」が見える。「流れる」ときは「流れ」そのものを見はしない。「流れる」とは自分が流れるであり、「流れてくる」は自分以外のものが「流れる」のである。「私」を一点に固定させておいた方が「流れ」は見えやすい。
「流れ」。「倫理や論理や論難や」の流れ。
それが見えますか、と小林は問うているようである。どんな「流れ」が世界を作っているか、それを言えますか、と問うているのである。その問いが「私は石になって流れる」と「流れる」のなかにある。繰り返されたことばの、 2度目のことばのなかにある。
おなじようなことが、「楽しみ」「待つ」「過ぎ去る」にも起きているはずである。それをどこまで探してゆくことができるか--それが小林の作品を読むということなのだと思った。
*
仲山清「設計士の帰郷」。
そう 重い足音の持ち主が
おまえのからだに踏み込んだのだ
「そう」が書きたかったのだと思う。自分であれこれ考える。その考えを自分で肯定する。ほかに、誰も肯定しないから、自分で自分を肯定するしかないのだ。
肯定するものが自分しかいないということは、「肯定」されたことにはならない。そんなことは知っている。知っていて、それでも「そう」と肯定する。矛盾である。その矛盾のなかに「詩」が結晶している。