詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐倉玲美「樹になりたがっている影」

2007-04-26 23:37:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 佐倉玲美「樹になりたがっている影」(「カラブラン」7、2007年03月15日発行)。
 詩の書き出しに私はいつも強く引かれる。たぶん詩の書き出しにはその詩人の一番いい部分があらわれているのだろう。インスピレーションの一瞬があるのだろう。

晴天の冬の朝日は
ピアノの隅の忘れ物さえ見つけだしてくれるから
わたしは両手をあげて樹になる
するとわたしの後ろで
冬枯れた裸ん坊の樹の影が
ひょろろんと泣き出すのだ

 ここから「わたし」と「樹の影」の対話がはじまる。もちろん対話といっても、それはすべて佐倉の頭の中でのことである。佐倉は「わたし」であると同時に「樹の影」であり、その「影」をもたらす樹でもある。三つのものが「ひょろろん」という魅惑的な泣き声で訴える。
 もう一度、泣き声は出てくる。

だからときにわたしは樹になって
枝をのばし葉をしげらせ風に耳を澄ます
風は行こうよ行こうよと誘うけれど
わたしは立派な樹だから知らん顔をする
するとわたしの後ろで影が
さびしい声で泣き出すのだ
ひょろろんひょろろんと情けない声で泣く

 「ひょろろんひょろろん」に意味はない。けれども肉体がある。意味、ことばになることを拒絶して、ただそのまま受け止めるしかない何かがある。
 わたしは、こういう存在感が好きだ。とても好きだ。
 このまま詩を終えることは、しかし、とても難しい。佐倉もせっかく肉体を発見しながら意味へと逃げていく。(逃げていく、という気持ちは佐倉にはないだろうけれど。)肉体が、ありふれた意味、感傷的な生活の陰影へと引き下がっていく。たぶんそう書くのが佐倉にとって一番安心感があるのだろう。「ひょろろんひょろろん」のあとを真剣に追いかけていくと、佐倉は佐倉ではなくなってしまう。今の暮らしが今の暮らしではおさまりがつかなくなる。そうなることがこわいのだと思う。こういう恐怖は恐怖心として大切なものだとは思うけれど、それでは「詩」は死んでしまう。
 一篇の詩を書くということは、「わたし」が「わたし」ではなくなることだ。そういう冒険にまで、ことばを動かしていってほしいと思った。せっかく「ひょろろんひょろろん」という声を聞いたのだから。

コメント
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