森永かず子「思い出」、山本まこと「少年遊戯」(「水盤」1、発行日不明)。
人間にはわかることとわからないことがある。あたりまえのことかもしれない。そういうあたりまえと思われていることがらを森永はていねいに描いている。
「思い出」の冒頭。
2行目の「すべて」がとてもいい。
この「すべて」はことばは「すべて」だが意味的には「すべて」というよりはきわめて限定的だ。「すべて」と呼ばれているのは「たった一度」であり、「車内から見たその人」であり、そしてその人は「いつまでも立ちすくむ人」である。
森永は偶然見かけた人について何一つ知らない。名前も知らなければ、その人が立っている理由も知らない。そこでは「すべて」が欠落している。そういうものを「思い出」ということばにしてしまっていいのだろうか。--そういう疑問を、反語の形で森永は提出している。
偶然見かけた人の「すべて」を知らないかわりに、ここには書かれていない「すべて」を森永は知っている。その人を見たときの森永の気持ち、そのとき感じた森永のことばにならない思い。ことばにならないけれど、まざまざと思い出せる瞬間--そのときの「すべて」を森永は知っている。
「思い出」は森永の外(思い出している対象)にあるのではなく、森永の内部にある。こころといえばいいのか、肉体といえばいいのか、どう呼んでいいかわからないが、森永の内部にあり、それが外部とのつながりをもとめてさまよい出てくる。その不安--不安の「すべて」が「思い出」である。
思い出せる「こと」ではなく、「思い出せる」というこころの動きが「思い出」なのだと、森永は「すべて」ということばで語っている。
「おつかい」は駅に「ヤマダのおばさん」を迎えに行った「思い出」を書いている。ヤマダのおばさんを知らないのにヤマダのおばさんを迎えにゆく理不尽な思い出。
ここには「思い出」では書かれていなかった「すべて」が描かれている。そのときの気持ちが書かれている。こころのなかに何が起きていたか。
この紙飛行機は実在ではない。こころがつくり出した幻である。幻は他人にとっては実在ではないが、森永にとっては実在である。--この矛盾。他人と森永とでは「実在」そのものがまったく正反対であるという矛盾のなかに「詩」がある。他人にとっての真実ではなく、森永自身にとっての真実を語る。そこから「詩」がはじまる。
「思い出す」ではなく「思い出せる」。森永の意志を超えて、何かが動く。その動きに森永自身をゆだね、そのときの動き(ゆらぎのようなもの)を「すべて」と断定するとき、「詩」ははじまる。
*
山本まこと「少年遊戯」のことばの動きは、私には高岡修のことばの動きに似ているように感じられる。山本が高岡に似ているのでもなく、また高岡が山本に似ているのでもない。同じ「教養」を生きているものが自然に似てしまうという感じの似方である。
「少年」という存在は、世界のつむぎ方が均一ではない。知っていることと知らないことが入り乱れ、認識の網目は粗い。その世界は凸凹している。そして、その凸凹に抒情がある--というのが山本の、そして高岡の「詩」である。
山本のことも高岡のことも私は知らないのだが、二人は同じような年代なのだろう。同じような「文学教養」を生きてきたのだろう。そして二人とも幼いときから秀才だったんだろうなあ、という感じがとても強く感じられる。
人間にはわかることとわからないことがある。あたりまえのことかもしれない。そういうあたりまえと思われていることがらを森永はていねいに描いている。
「思い出」の冒頭。
思い出せることを
すべて「思い出」と呼ぶのだろうか
たった一度
車内から見たその人
過ぎていく時のなかにうつむいて
いつまでも立ちすくむ人
2行目の「すべて」がとてもいい。
この「すべて」はことばは「すべて」だが意味的には「すべて」というよりはきわめて限定的だ。「すべて」と呼ばれているのは「たった一度」であり、「車内から見たその人」であり、そしてその人は「いつまでも立ちすくむ人」である。
森永は偶然見かけた人について何一つ知らない。名前も知らなければ、その人が立っている理由も知らない。そこでは「すべて」が欠落している。そういうものを「思い出」ということばにしてしまっていいのだろうか。--そういう疑問を、反語の形で森永は提出している。
偶然見かけた人の「すべて」を知らないかわりに、ここには書かれていない「すべて」を森永は知っている。その人を見たときの森永の気持ち、そのとき感じた森永のことばにならない思い。ことばにならないけれど、まざまざと思い出せる瞬間--そのときの「すべて」を森永は知っている。
「思い出」は森永の外(思い出している対象)にあるのではなく、森永の内部にある。こころといえばいいのか、肉体といえばいいのか、どう呼んでいいかわからないが、森永の内部にあり、それが外部とのつながりをもとめてさまよい出てくる。その不安--不安の「すべて」が「思い出」である。
思い出せる「こと」ではなく、「思い出せる」というこころの動きが「思い出」なのだと、森永は「すべて」ということばで語っている。
「おつかい」は駅に「ヤマダのおばさん」を迎えに行った「思い出」を書いている。ヤマダのおばさんを知らないのにヤマダのおばさんを迎えにゆく理不尽な思い出。
ヤマダのおばさん ヤマダのおばさんと
念じ続けた
出来損ないの紙飛行機のように
落下していくヤマダのおばさんが
私のなかでいっぱいになる
ここには「思い出」では書かれていなかった「すべて」が描かれている。そのときの気持ちが書かれている。こころのなかに何が起きていたか。
出来損ないの紙飛行機のように
落下していくヤマダのおばさんが
私のなかでいっぱいになる
この紙飛行機は実在ではない。こころがつくり出した幻である。幻は他人にとっては実在ではないが、森永にとっては実在である。--この矛盾。他人と森永とでは「実在」そのものがまったく正反対であるという矛盾のなかに「詩」がある。他人にとっての真実ではなく、森永自身にとっての真実を語る。そこから「詩」がはじまる。
「思い出す」ではなく「思い出せる」。森永の意志を超えて、何かが動く。その動きに森永自身をゆだね、そのときの動き(ゆらぎのようなもの)を「すべて」と断定するとき、「詩」ははじまる。
*
山本まこと「少年遊戯」のことばの動きは、私には高岡修のことばの動きに似ているように感じられる。山本が高岡に似ているのでもなく、また高岡が山本に似ているのでもない。同じ「教養」を生きているものが自然に似てしまうという感じの似方である。
カラスアゲハの鱗粉に汚れたシャツを精神のようにあらった夏
光陰という主題もなしに
遥かな射精のリズムに囚われ、て
少年、きみはうたうのだ
「少年」という存在は、世界のつむぎ方が均一ではない。知っていることと知らないことが入り乱れ、認識の網目は粗い。その世界は凸凹している。そして、その凸凹に抒情がある--というのが山本の、そして高岡の「詩」である。
山本のことも高岡のことも私は知らないのだが、二人は同じような年代なのだろう。同じような「文学教養」を生きてきたのだろう。そして二人とも幼いときから秀才だったんだろうなあ、という感じがとても強く感じられる。