詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子「はなも小枝を」

2007-04-25 14:14:22 | 詩(雑誌・同人誌)
 三井葉子「はなも小枝を」(「ガニメデ」39、2007年04月01日発行)。
 きのう読んだ宮崎の詩もそうだったが、この三井の詩も書き出しが魅力的だ。

ながい間
死は禁忌(タブー)であったのでてのひらでやさしく伏せられていた
指を
じっとみていると それは
犬が鳴く夜もあったし
月光が
おお
月光のふちから這い上ってくることもあった

 「月光が/おお/月光の」。この一瞬の切り返し。主語の消滅。月光「が」どうしたのか書かれていない。述語が書かれていない。月光が……と書こうとする意識を追い抜いて、「月光のふちから這い上ってくることもあった」という動作がある。そして、ここでは述語があって主語がない。
 この錯乱(?)をつなぎとめているのが「死」という「タブー」なのだろう。
 タブーだからこそ、述語を伏せる。主語を伏せる。伏せられたものが、書かれたことばの奥深くで深く結びつく。

 伏せたまま書く。伏せたままというのは、しかし、意識しないということではない。むしろ、書いてしまうよりも意識し続けることかもしれない。書く、ことばにするというとこは、意識を持続するというよりは、意識を捨て去るという要素の方が強いことがある。「伏せる」は逆に、けっして捨てないことである。意識し続けることである。
 だからこそ、常に表へ出てこようとして暴れる。死は、次のような形になって登場する。

生が
止まっていた 血が
広がっていた
暖かい


 2行目の「止まっていた 血が」は倒置法によって書かれた文章ではない。もしそうであるなら、死はここにはなく、生がつづいている。「生が/止まっていた」は本来1行で書かれてるべきことばである。「生が/止まっていた」とは「死んでいた」を言い換えたものである。
 死を明確にするなら、「生が止まっていた/血が広がっていた」と書いた方が意味が通りやすい。しかしそれでは「伏せていたもの」がよく見えない。伏せるという意識がよくみえない。事実よりも、伏せているという事実、意識の在り方を明確にするために、「生が/止まっていた」と書き、その意味を混濁させたまま「止まっていた/血が」と主語を乱入させる。そうすることでいっそう死を伏せていることが、その伏せるという意識が明確になる。
 あるいは、こういうべきなのか。
 「生が止まっていた/血が広がっていた」を「生が/止まっていた 血が/広がっていた」と書くことで主語を切り離せない物にしてしまっている。死と生が緊密につながっていること、けっして切り離せないことを語るために、三井は、わざと行のわたりを作品のなかに導入している。
 行のわたりによって主語を錯乱させる。そのことによって、いっそう、死を際立たせるのだ。
 「死」と直接書かずに「生が/止まっていた」と書くことで、死を突き放す。死という概念を突き放す。もう一度、より深く抱き締めるために。

 「暖かい/土」。これは血が暖かい土の上にまで流れているという描写だが、「土」のなかにある「ち」という響きが、土そのものよりも、土にこぼれた「血」を誘い出し、暖かいと呼ばれているのが「血」であると錯覚させる。
 主語、述語が、揺らぎながらひとつの時空間になる。主語と世界がとけあう。まるで「一元論」の俳句の世界ではない。
 そんなことを思いながら読み進むと、最後に、俳句そのものが待っている。

暖流や
はなも小枝をひろげつつ
                             


 この詩を読んだあとで、もう一度宮崎亨「森」を読み返すと、また楽しい。先行する行のことばをのみこみながら(省略しながら)別のことばの中へと進んで行く意識。世界は広がるというよりは、より意識の奥へ奥へともぐりこんで行くようだ。
 三井のことばは、主語・述語を隠しながら、いっきに世界そのものへの転換をはかっているが、宮崎は世界へとかわることを拒否し、ひたすら意識へもぐりこむ。
 そんな違いも見えてくる。


コメント
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