詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「鍋島の地」

2007-04-20 23:36:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 岩佐なを「鍋島の地」(「交野が原」62、2007年05月01日発行)。
 ちょっと驚かされた。気持ち悪くない。私は岩佐の詩を読むと、たいてい気持ち悪くなる。ところが今回はまったく気持ち悪くならない。

渋谷に割って入ると、Y字路の(人体でいえば下腹部の)あたりに妖しい池のある鍋島区域があって。昔々、ここには逞しい鉄骨の檻つめたく組まれ、その外側をデカ角の大鹿が腕組んで難しい顔をしながら散歩していたものだった。池はたまたま(またまた)深くなったり水面を拡げたりして勝手気儘にふるまってはいた。「いつまでも耀うなかれ池の波あるじなければ草もぼーぼー」と書かれた立て札に血が付いている。

 「血」ということばが印象に残らないくらい気持ち悪くない。「鉄骨の檻つめたく組まれ」の「が」の省略にかすかに岩佐の文体の不思議な粘着力、粘着力を利用してずるずるとずれていく感じが残っているが、その粘着力が減ってきている。かわりに「空隙」ができている。
 「Y字路の(人体でいえば下腹部の)」というような文体は、いままでの岩佐にはなかったのではないだろうか。肉体、皮膚感覚で、皮膚そのものを侵食して肉体の内部に入っていく感じが消え、いったん「頭」を通過するときに生まれる「空隙」のようなものを感じてしまう。
 粘着力が弱くなっているというのは岩佐も感じていることかもしれない。

なすりつけられたホリー(旅行中)のちょっとした鼻血で、いまどき猫の愛憎が、煮詰めた血色の真っ黒くねばねばした人型(偽人間)と化して悪さをしたりはしない。

 「ねばねば」ということばを必要としないのが「粘着力」である。「ねばねば」と書くのは文体に「粘着力」がなくなっててきため、それを補おうとする無意識の操作だろう。ここから岩佐がどこへ行こうとしているのか、よくわからない。
 猫の恋、血みどろの(?)戦い……がまるで童話のように描かれる。
 びっくりしてしまった。



 読売新聞夕刊に連載の松浦寿輝「川の光」も童話である。松浦独自の文体は最初の頃には感じられたが、だんだん「さらさら」してきた。童話を粘着力のある文体で書くのは難しいのだろうか。
 それとも「童話」というのは肉体ではなく「頭」で書くものなのだろうか。
 「頭」で書いた「童話」でなく、肉体で書いた「童話」をふいに読みたくなった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする