詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ピーター・ウェーバー監督「ハンニバル・ライジング」

2007-04-27 22:34:55 | 映画
監督 ピーター・ウェーバー 出演 ギャスパー・ウリエル、コン・リー、リス・エヴァンズ、ケヴィン・マクキッド

 ハンニバル・レクターがどのようにしてレクター博士になったか--というよりもアメリカ人に日本がどのように理解されているかということを描いた映画だ。
 感情を表に出さない。能面のような表情。その奥にある怒り、激情。感情を表に出さずに、冷静な行動にかえていく。単純な、図式的な、紋切り型の構図である。それはそれで仕方がないことかもしれないけれど、その紋切り型の利用の仕方に私は疑問を持った。

 家族を殺された、幼い妹を殺された、というだけでは少年がどうやってあのレクター博士になったかを説明するには動機として弱すぎる。そのため、幼い妹を殺されただけではなく、食べられたという異常な状況を設定する。しかし、それだけでもまだあのレクター博士の誕生を説明するには何かが足りない。妹を食べられた、妹が殺され、食べられるのを見たという状況は異常すぎて、説明にはなりえない。そんなことを体験してきて、正常に(?)医学学生になるための試験(それも飛び級)に受かるような理性を保てるだろうか。驚異的な天才という設定だから、それでもいいのかもしれないが、やはりどこか不自然である。
 この不自然さを隠し去る手段(方法?)として「日本」が利用されている。武士の鎧、兜。日本刀。首切り。能面。コン・リー(日本人の役)はギャスパー・ウリエルに「日本」の哲学を教える。剣道も、その実践として、教える。生け花も教える。(茶も教えたように描かれている。)感情を表に出さず、冷静に行動する。ハンニバル少年がレクター博士にかわったとき、そこには「日本」の哲学が影響を与えている。ただし、その影響がどんなものかは、やはり「能面」のような「顔」の奥の世界であって、西洋人には理解できない--理解を超えたものである。「理解を超えた冷静さ」。その象徴として「日本」が利用されている。
 この利用の仕方は、かなり俗悪である。
 俗悪な利用の仕方をしてもいいのだ、というふうに日本は理解されている、ということかもしれない。

 この俗悪さを別にして見れば、ギャスパー・ウリエルはなかなかおもしろい役者だった。冷徹、非道な人間というより、生身のあたたかさ、アンソニー・ホプキンスに通じるひとなつっこさをただよわせている。復讐のために人を殺しても、そのことによって人格がかわらないことを、かわらない表情で演じる。コン・リーが徐々に表情をかえるのに反し、ギャスパー・ウリエルは表情がかわらない。汚れを感じさせない。血を浴びたりするのだが、その血がかえってギャスパー・ウリエルを美しくみせる。美男には血が似合うものだが、そういう意味ではギャスパー・ウリエルは美男なのだろう。そして、美男であることによって、すべてを拒絶する。殺人は悪である、という哲学を拒絶する。

 それとは別に、この映画にはひとつ不思議な点がある。
 ギャスパー・ウリエルは、「おまえも妹の肉を食べたのだ」と告げられる。そのことが置き去りにされている。ギャスパー・ウリエルが冷徹な殺人者になったのは、実は彼自身が妹の肉を食べたということを知られたくなかったからではないのか、と私は思ってしまった。ギャスパー・ウリエルは復讐というよりも、彼自身が妹の肉を食べてしまったという事実を知っている人間を世界から抹殺するために殺人をしている--そうとらえた方がレクター博士の誕生にはふさわしいのではないだろうか。そうとらえ、そんなふうに描いていけば「日本」を登場させずに、もっと「西洋人」の問題としてレクター博士を濃密に描けただろう。
 「日本」を登場させたのは、一種の手抜きである。--と日本人である私は思う。

 
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小柳玲子「三月 雨」

2007-04-27 21:31:58 | 詩(雑誌・同人誌)
 小柳玲子「三月 雨」(「きょうは詩人」7、2007年04月23日発行)。

夕方
窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった
「お父さん サンマが」といったが聞こえなかった
父の部屋はとても遠い
長い廊下を走っていったが どの夕方も間に合わない

 「どの夕方も間に合わない」の「どの」がおもしろい。
 「窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった」ということがきょうの特別なことではない。またそれを声に出して叫ぶこともきょうに限ったことではない。父の部屋まで「長い廊下を走っていった」こともきょうだけのことではない。繰り返し繰り返しやってきたことである。つまり「日常」である。
 小柳がここに書いているようなことは、誰でもが体験することではない。いや、誰も体験しないことである、といった方がいいかもしれない。しかし、それゆえに「日常」なのだ。
 「日常」はきわめて個人的なことである。ひとりひとりの都合に合わせて私たちは生きている。他人(父さえも含める)の都合に合わせて生きているわけではない。他人(父をも含める)ももちろん小柳の都合に合わせて生きているわけではない。小柳が「サンマの顔をしたもの」を奇異に感じようが感じまいが、「サンマの顔をしたもの」は「サンマの顔をした」ままなのである。「イワシの顔」や「タイの顔」をしてくれるわけではない。ましてや「人間の顔」であってくれるはずがない。
 どうやって折り合いをつける。
 小柳は詩を書くことで折り合いをつけている。「サンマの顔をしたもの」と書くことで、小柳の「日常」のなかの理不尽なものを消化している。「お父さん」に向かって、叫ぶことによって。「父の部屋」まで長い廊下を走ることによって。--そう書くことによって。
 ここに書かれていることがらを誰かが見て、「小柳さん、それはそうじゃないでしょ」と言ってみてもはじまらない。「日常」とはもともと絶対にわかりあえない何かなのである。

裏木戸にはむらさきの大きなものと
むらさきの小さなものが来ていた
「お父さん むらさきの」
叫びながら走ったが 父の部屋は遠い
不意に電話ボックス 廊下に電話ボックスも変だが
在るのだからしかたない

 この「しかたない」こそが「日常」だ。「サンマの顔をしたもの」も、それはそれで「しかたない」のである。「しかたない」と、存在をすべて受け入れる。「しかたない」と言って、存在するものを受け入れる。そこがおもしろい。
 「どの」存在も、「どの」時間も、「しかたない」。その積み重ねとして「日常」がそれぞれの「日常」になってゆく。そんなふうに自分をつくりかえていくという方法もあるのだ、ということを考えた。「どの」と「しかたない」には、小柳の「思想」がある。

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