詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

くらもち さぶろう「タバコ」

2007-04-12 12:08:32 | 詩(雑誌・同人誌)
 くらもち さぶろう「タバコ」(「ガニメデ」39、2007年04月01日発行)。
 たばこと人間の関係が逆転している。逆転しているのに、たしかにこの関係はありうると思う。

しろい ふく の タバコ が ニンゲン を
すって いる
この よ にわ こんなに うまい もの わ
ない と いう ように
め を ほそめて すって いる
すばらしい かんがえ が うかぶ か の ように
まじめな かお を して すって いる

うす むらさき いろ の けむり と なって
テンニョ の ころも の ように
ゆるやかに まい ながら
そら に のぼって いく
よごれた この よ を すてて
たましい が そら に のぼる ように

 なぜ、この関係がありうると感じてしまうのだろうか。たとえば私たちはたばこか人間にとって害であり、いのちを縮めることを知っている。くらもちの詩を読みながら、たばこを吸うことはたばこにいのちを吸い取られることだということを感じ、「しろい ふく の タバコ が ニンゲン を/すって いる」を寓話として受け止めているのだろうか。
 4連目。

ち が ぜんぶ すいとられて
かわいて かさかさ に なる と
あたま も むね も はら も
もえつきた かみ の ように
かぜ も ない のに
ひとりでに くずれて きえる

 こうした行を読むと「寓話」に意識がどんどん傾いてゆく。
 だが、これは「寓話」なのだろうか。たばこを吸うことで人間はいのちを縮める。たばこの火が燃え尽きるように人間も燃え尽き、焼いた肉体はくずれる……。
 「意味」が成立するだけに、そういう「意味」にどうしてもすがりつきたくなる。「寓話」と思って読んだ方が楽に読むことができる。

 だが、くらもちは、今書いたようなことを書こうとしているわけではないのだと私は思う。もし「寓話」を描きたいのなら、もっと簡単に書けるだろう。この作品ではことばがそれぞれ独立しているかのようにぽつんぽつんと「分かち書き」で書かれている。「寓話」という意味の連続、現実世界と平行してある架空の世界を描くなら、どこまでも連続カンを感じさせる書き方の方がわかりやすいだろう。
 ところがくらもちはそういう書き方をせず、ことばを「分かち書き」する。その書き方こそがくらもちの詩であり、思想だ。

 くらもちは、まず、たばこと人間が「一体」であるということを書く。人間がたばこを吸うとき、人間とたばこは切り離せない。たばこという存在がなければ、人間はたばこを吸うことはできない。ふたつは分離不能である。たばこと人間は、たばこを吸えば人間のいのちは縮まる。それはたばこによって人間のいのちが縮むということだ、という「意味」によって人間とたばこが「一体」となるのではない。意味ではなく、たばこの煙が人間の体の中へ入ってきて、また出ていくという運動、時間そのものと一体になる。
 意味、とりわけ死とか敗北とか悲しみという意味によって人間と人間以外のものが「一体」となるのは抒情のひとつの手法だが、くらもちの「一体」は抒情とは違う。
 悲劇的、そしてセンチメンタルな意味を放棄することでくらもちの描くたばこと人間は一体になっている。「この よ にわ こんなに うまい もの わ/ない」。幸福の、ことばにならないことばによって人間とたばこが一体になっている。ありふれたことば、だれもが口にすることば、そういう単純なことばが共有される。共有され、たばこと人間のあいだで区別がつかなくなっている。
 この世界に幸福があるとすれば、こういう区別のない世界である。
 私と私以外のものがとけあってしまって、そのどちらが「主人公」でどちらが「脇役」かわからなくなる。その区別がなくなったことを手がかりにして、私と世界との区別もなくなっていく。私が世界になってしまう。--その喜び。喜びに「意味」はない。ただ充実感があるだけだ。
 くらもちは「うまい」ということばそのものとも一体になり、「うまい」ということばを書いたときは「うまい」そのものなのだ。

 くらもちはたばこを吸っているとき、たばこと一体であり、世界はたばこをすっている、たばこがうまいというだけの世界である。すべての存在の区別が消え、単純にたばこがうまいという充実感だけがある。
 すべてが「一体」になってしまっているからこそ、ある意識の瞬間瞬間、世界そのものとして一個の単語が独立しても気にならない。というか、あらゆる瞬間瞬間に、あらゆる存在、あらゆる感覚、感情が浮き彫りになって、その立ち上がってきたことばそのものが世界の全体なのである。

 くらもちは詩のことばを、激しく「分かち書き」している。ことばがそれぞれ独立して、ぽつんぽつんと置かれている。つながっていない。
 つながっていないけれど、それは「孤立」とは違う。
 「孤立」ではなく、全体なのだ。世界そのものなのだ。世界がそれぞれのことばのなかに、瞬間瞬間、凝縮して存在する。くらもちが書こうとしているのは、そういう世界だ。とてもおもしろい。


コメント
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