詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北爪満喜「保護区」

2007-04-28 14:46:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 北爪満喜「保護区」(「モーアシビ」9、2007年04月20日発行)。
 近年、豊かな海(魚がたくさん棲む海)のために森が不可欠であることが指摘されている。海を育てるための森というものがたくさんある。北爪はその森と出会う。

崖っぷちの林の中を歩いてゆくと
小さなプレートが木に巻き付けられていた
魚保護区
と文字が読めた
林の中なのに 魚がいるの

ええっ 木々の間を魚が泳ぐの

そんなわけない
ぴたっと本を閉じるように
思い付いたことを閉じようとしても
ぴたりと閉じられない
どこかずれてしまって
もう木々のあいだを魚が泳ぎだしている

ええっ と思った隙間から
魚は
抜け出してきたのだろうか
魚は
しなやかに銀色の背を光らせて
林のあいだを幹を巡って
くるくると泳ぎ回っている

 「閉じる」「ずれ」「隙間」。意識の一瞬の動きを、そうしたことばで北爪はとらえている。もっとも興味深いのは「閉じる」である。「ぴたっと本を閉じるように/思い付いたことを閉じようとしても」と「閉じる」は2度使われている。
 この「閉じる」は何かが北爪の内部へ侵入してくることを拒むための「閉じる」なのだが、侵入を拒むどころか、逆に北爪の内部で拒否したかったはずのものが増殖する。増殖して、あふれだしてゆく。「閉じる」が拒絶ではなく「結合」へと変化している。「閉じる」が「結合」に変化することで、北爪自身が、北爪から「森」へと変化してしまっている。この変化が楽しい。
 驚き(「ええっ」と北爪は書いている)は「私」という枠を取り払う。消してしまう。だからこそ、北爪は急いで「閉じる」必要があったのだろう。「私」を「私」という枠のなかに「閉じる」必要を感じたのだろう。
 しかし、いつでも「私」が必要とするものよりも、「私」を壊してゆくものの方が大きい。いったん壊れてしまえば必ずその痕跡は残る、と言い換えればいいだろうか。
 北爪は、ここから「壊れてゆく私」を「閉じる」ことで再構築しようとしない。「ずれ」とか「隙間」とかを利用して(つまり、自分は一生懸命「閉じる」ことをこころがけているのだと自分に言い聞かせながら)、逆に「私」をひろげてゆく。解放してゆく。
 この感じが、とてもおもしろい。とても楽しい。

思い付いたことは閉じられない
思い付く
隙間がふえて
それが林になってゆく

 「隙間」が林になってゆくと北爪は書いているが、この詩を読むと、北爪が林になってゆく様子がよくわかる。
 あらゆる存在は別個に存在するのではない。林は林として存在するのではない。北爪が林を認識するとき、林は林になる。魚が泳いでいると認識するとき、何かが魚になる。「思い付く」ということばを手がかりに考えれば、北爪の「思い」が魚に「なる」。北爪の「思い」が同様に林に「なる」。それは北爪が魚に「なり」、同時に林に「なる」というのと同じ意味だろう。
 「なる」ことが「私」をおしひろげることであり、「なる」ことが「私」を解放することである。この動きに無理がない。だから楽しい。

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入沢康夫と「誤読」(メモ7)

2007-04-28 12:23:38 | 詩集
 「転生」(『夏至の火』)の、たとえば次のような行に、入沢の嗜好(無意識の思考=生理的な思想)を感じる。

                 あの人の墓だとい
う みんなが言うのだ あたしは それはうそだとすぐ
判つたが だまされたふりをせねばならぬ

 こに書かれているのはひとつの「神話」である。ある男(あの人)がいて、その男が死んでしまった。その男のことを「あたし」は思っている。思い出している。
 その途中に出てくる行である。
 嘘と分かって、それでも嘘を明らかにしない。逆にその嘘に身をまかせる。嘘には嘘を成り立たせるための「思い」がある。その思いを共有する。人と(みんなと)思いを共有することが、それが真実であるかどうかよりも重要なのである。「神話」とは事実を語り継ぐというよりも、その「時」を生きたひとの共有する「思い」を語り継ぐものなのだ。
 「事実」そのものではない、ということに的を絞って、「神話」を「誤読」された「時間」と読み替えることができる。同時にひとびとによって共有された「思い」と読み替えることもできる。
 そういう「神話」の中で、何が起きているか。

        海が陸地になり 陸地が海になり お
れはおれになり またおれが出来る

 「神話」のなかでおれはおれに「なる」。ひとびとの「思い」、「共有された思い」のなかで、おれはおれに「なる」。「思い」のなかでは生成が起きている。人はただ「男」を受け入れるのではない。そこに「思い」を託し、ことばにする。「男」を変形させる。「男」であって、「男」ではないものにしてしまう。
 「またおれが出来る」の「出来る」は「誕生する」(発生する)と同じ意味である。
 そして、この誕生には必ず死がついてまわっている。
 いま引用した行に先立つ断章の書き出し。

おもが死んだのは 今度がはじめてなのではない

 「男」は何度で死んでいる。死ぬことによって、ひとびとに語られ、その語りの中で、人々の「思い」を代弁するものへと変形させられる。「男」はおれに「なる」。語られるたびに、「またおれが出来る」。
 「誤読」は単に「誤読」のまま存在するのではない。「誤読」され、語られなおし、語り継がれる。そして、「ことば」になるのだ。
 「誤読」から「ことば」へ。--そこに、たぶん入沢の「夢」がある。
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