北爪満喜「保護区」(「モーアシビ」9、2007年04月20日発行)。
近年、豊かな海(魚がたくさん棲む海)のために森が不可欠であることが指摘されている。海を育てるための森というものがたくさんある。北爪はその森と出会う。
「閉じる」「ずれ」「隙間」。意識の一瞬の動きを、そうしたことばで北爪はとらえている。もっとも興味深いのは「閉じる」である。「ぴたっと本を閉じるように/思い付いたことを閉じようとしても」と「閉じる」は2度使われている。
この「閉じる」は何かが北爪の内部へ侵入してくることを拒むための「閉じる」なのだが、侵入を拒むどころか、逆に北爪の内部で拒否したかったはずのものが増殖する。増殖して、あふれだしてゆく。「閉じる」が拒絶ではなく「結合」へと変化している。「閉じる」が「結合」に変化することで、北爪自身が、北爪から「森」へと変化してしまっている。この変化が楽しい。
驚き(「ええっ」と北爪は書いている)は「私」という枠を取り払う。消してしまう。だからこそ、北爪は急いで「閉じる」必要があったのだろう。「私」を「私」という枠のなかに「閉じる」必要を感じたのだろう。
しかし、いつでも「私」が必要とするものよりも、「私」を壊してゆくものの方が大きい。いったん壊れてしまえば必ずその痕跡は残る、と言い換えればいいだろうか。
北爪は、ここから「壊れてゆく私」を「閉じる」ことで再構築しようとしない。「ずれ」とか「隙間」とかを利用して(つまり、自分は一生懸命「閉じる」ことをこころがけているのだと自分に言い聞かせながら)、逆に「私」をひろげてゆく。解放してゆく。
この感じが、とてもおもしろい。とても楽しい。
「隙間」が林になってゆくと北爪は書いているが、この詩を読むと、北爪が林になってゆく様子がよくわかる。
あらゆる存在は別個に存在するのではない。林は林として存在するのではない。北爪が林を認識するとき、林は林になる。魚が泳いでいると認識するとき、何かが魚になる。「思い付く」ということばを手がかりに考えれば、北爪の「思い」が魚に「なる」。北爪の「思い」が同様に林に「なる」。それは北爪が魚に「なり」、同時に林に「なる」というのと同じ意味だろう。
「なる」ことが「私」をおしひろげることであり、「なる」ことが「私」を解放することである。この動きに無理がない。だから楽しい。
近年、豊かな海(魚がたくさん棲む海)のために森が不可欠であることが指摘されている。海を育てるための森というものがたくさんある。北爪はその森と出会う。
崖っぷちの林の中を歩いてゆくと
小さなプレートが木に巻き付けられていた
魚保護区
と文字が読めた
林の中なのに 魚がいるの
ええっ 木々の間を魚が泳ぐの
そんなわけない
ぴたっと本を閉じるように
思い付いたことを閉じようとしても
ぴたりと閉じられない
どこかずれてしまって
もう木々のあいだを魚が泳ぎだしている
ええっ と思った隙間から
魚は
抜け出してきたのだろうか
魚は
しなやかに銀色の背を光らせて
林のあいだを幹を巡って
くるくると泳ぎ回っている
「閉じる」「ずれ」「隙間」。意識の一瞬の動きを、そうしたことばで北爪はとらえている。もっとも興味深いのは「閉じる」である。「ぴたっと本を閉じるように/思い付いたことを閉じようとしても」と「閉じる」は2度使われている。
この「閉じる」は何かが北爪の内部へ侵入してくることを拒むための「閉じる」なのだが、侵入を拒むどころか、逆に北爪の内部で拒否したかったはずのものが増殖する。増殖して、あふれだしてゆく。「閉じる」が拒絶ではなく「結合」へと変化している。「閉じる」が「結合」に変化することで、北爪自身が、北爪から「森」へと変化してしまっている。この変化が楽しい。
驚き(「ええっ」と北爪は書いている)は「私」という枠を取り払う。消してしまう。だからこそ、北爪は急いで「閉じる」必要があったのだろう。「私」を「私」という枠のなかに「閉じる」必要を感じたのだろう。
しかし、いつでも「私」が必要とするものよりも、「私」を壊してゆくものの方が大きい。いったん壊れてしまえば必ずその痕跡は残る、と言い換えればいいだろうか。
北爪は、ここから「壊れてゆく私」を「閉じる」ことで再構築しようとしない。「ずれ」とか「隙間」とかを利用して(つまり、自分は一生懸命「閉じる」ことをこころがけているのだと自分に言い聞かせながら)、逆に「私」をひろげてゆく。解放してゆく。
この感じが、とてもおもしろい。とても楽しい。
思い付いたことは閉じられない
思い付く
隙間がふえて
それが林になってゆく
「隙間」が林になってゆくと北爪は書いているが、この詩を読むと、北爪が林になってゆく様子がよくわかる。
あらゆる存在は別個に存在するのではない。林は林として存在するのではない。北爪が林を認識するとき、林は林になる。魚が泳いでいると認識するとき、何かが魚になる。「思い付く」ということばを手がかりに考えれば、北爪の「思い」が魚に「なる」。北爪の「思い」が同様に林に「なる」。それは北爪が魚に「なり」、同時に林に「なる」というのと同じ意味だろう。
「なる」ことが「私」をおしひろげることであり、「なる」ことが「私」を解放することである。この動きに無理がない。だから楽しい。