詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ3)

2007-04-04 10:55:36 | 詩集
 「或る夏の夜の出来事 附 その後日譚」。死のうと思って海へ向かった男と女がコーヒー店で出会う。

とんだことである
夏のある夜
死のうとおもった男と
死んだ気になった女と

とおい とおい 海の音は
古ぼけたオルゴールだ
死ぬことを見合せたばかりか

とんだことである
夏の夜のことだ
とんだことである
とんだことである
大いにとんだことである

死ぬことなんか忘れて
それからは
大いに仕事に精を出し大いに内助の功をあげ
大いに富んだことでるあ
大いにとんだことである

 「とんだことである」が詩のなかに繰り返されている。「以外で大変な」「取り返しのつかない」。そういうような意味を持っている。最後に「富んだことである」と音は同じだが、意味のまったく違うことばが一回だけ出てくる。軽い落語のような落ちなのだが、こうしたことば遊び、駄洒落のなかにも「誤読」の要素が隠れている。人間の願いが生きている。

 自殺を決意した男が登場する最初の連。

とんだことである
コーヒーと一しょに
はずかしい記憶を
のみほして一文なしの
一人の男がテーブルを立った

 「とんだことである」という書き出し。ここから「誤読」は始まっている。同じような意味をもったことばに「とんでもない」がある。もし、「とんでもないことである」と書きはじめたなら、この詩は最後までつづかないし、1連目自体成り立たない。
 「一文なし」という表現が4行目にある。「一文なし」ということばが「とんだことである」の「とんだ」を意識の奥で揺り動かしていると言えばたぶん言い過ぎになるのだろうけれど、「とんだ」と「一文なし」は最初からかたく結びついている。「とんだことである」が「一文なし」を引き出した瞬間、「富んだことである」へと変わりはじめたのだと言った方がたぶん正しいだろう。
 人間はいつでも「真実」とは違うことを思い描く。一種の習性のようなものかもしれない。お金がないときは、お金がないという「事実」に目を向けずに、お金があったなら、と考えてしまう。空想してしまう。その空想のなかに「真理」がある。金持ちになりたいという嘘偽りのないこころがある。それこそ駄洒落になってしまうが、「真理」とは「心理」だ。空想の中で、人は嘘をつかない。空想のなかには人間の切実な願いがある。
 こうした空想のなかに生きている「真理=心理」は「哲学」などの固い本の中ではていねいにはあつかわれていないような気がする。しかし、そういうものをことばにしていかないと、人間はほんとうは生きられない。かなわない夢--それを「誤読」の形で他人と共有する。人間は、そんなふうにして生きてはいないだろうか。

 この落語のような入沢の詩。はっと驚く「思想」、ことばのきらめきはない。そのかわりに「駄洒落」がある。駄洒落だから、もちろんくだらない。くだらないのだけれど、そのくだらなさを共有するとき、何かが動きはじめる。「思想」にならない思いが。つまり、ことばにはならない、ことば以前のことばが動きはじめる。
 全体的な真実(?)(高邁な哲学、文学の正しい解釈など)ではなく、「事実」としては間違っているのだけれど、間違うことでしか伝えられない「心理の真理」というものがあり、それこそ文学がことばとしてすくい上げなければならないものなのかもしれない。「誤読」のなかには「誤読」でしか守り通せない何かがある。それを入沢は書こうとしている。
 現代詩手帖に連載された「偽記憶」シリーズを読んだときから、そういう思いがとても強くなった。「偽記憶」とは「誤読された記憶」のことかもしれない。「偽記憶」は事実と照らし合わせれば「偽」であるけれど、真理と照らし合わせれば「真理」である記憶のことだと思う。


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ロバート・アルトマン監督「今宵、フィッツジェラルド劇場で」

2007-04-04 00:12:01 | 映画
監督 ロバート・アルトマン 出演 メリル・ストリープ、ケヴィン・クライン、ヴァージニア・マドセン

 見えないはずのものが見える。これがこの映画のテーマだ。「幽霊」が登場する。「幽霊」は見えないはずのものが見えることの「象徴」だ。
 ラジオショウ。ラジオを聞いているかぎり、実際の舞台は見えない。生中継を聞きに(見に)行っている観客に舞台は見えても楽屋は見えない。どんな世界にも常に見えないものが存在する。その見えないはずのものを見えるように描いたのがこの映画だ。見えない部分に人間のいのちがある、というのがこの映画のほんとうのテーマである。
 脚本もいいのだと思うけれど、何よりも演出がすばらしい。群像劇の場合、どうしても「つなぎめ」がぎくしゃくする。登場人物のそれぞれをくっきりと描こうとすると、エピソードがかわるたびに、もう一度映画を撮り直す(?)という感じになる。主役がかわるたびに画面の質さえ変わってしまいがちだ。ロバート・アルトマンのこの映画ではそういうことがまったく起きない。場面がラジオショウの舞台と楽屋に限られているから、というよりも、やはり人間をとらえる視点がしっかりしているからだろう。多くの人がそれぞれの人生を背負って生きている。そのうちの誰かに肩入れするというのではなく、肩入れを拒んで演出している。言いたいこと(演じたいこと)があるなら言いなさい(演じなさい)、それをきちんと受け止めてあげますよ、という温かな視線が画面のすみずみに行き届いている。
 売れない(?)シンガーたちである。豪華さはない。衣装も化粧も華やかさからは遠い。しかし、そこに長い時間をくぐりぬけてきた不思議な肌触りがある。衣装が肉体になってしまっている感じがする。(この逆のエピソードが、司会者のズボンをはいていない姿だ。肉体が衣装なのである。今、ここに存在することが、そのひとのすべてなのである。)
 登場する誰もが自分の人生を受け入れている。もちろん受け入れがたいこともある。悲しみも怒りもある。それでも受け入れている。悲しみも怒りも肉体にしてしまっている。そのうえで、自分に何ができるか、それを探して生きている。そこからやさしさが始まる。受け入れることから始まる他人へのやさしさがある。
 「幽霊」さえも自分の人生を受け入れている。なぜ交通事故で死んだのだろう。ラジオから流れてくるジョーク、そのどこがおかしくて笑ったのかもわからない。わからないけれど、死んでしまった。そして死んでしまったことを受け入れている。死んだあと、自分にできることは何か、それを知って、自分にできることをやっている。
 どこかに隠してしまっておいて、ときどき見つめてみたい宝物のような、いとしさがこみ上げてくる作品だ。



 メリル・ストリープがすばらしい。ラジオショウという見えない舞台での人間らしく、体をしぼりきっていない感じ、疲労感をただよわせた肉体。疲労感をただよわせながらも、疲労くらいでは死にはしないというたくましさ。「プラダを着た悪魔」よりも格段にすばらしい。
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