「或る夏の夜の出来事 附 その後日譚」。死のうと思って海へ向かった男と女がコーヒー店で出会う。
「とんだことである」が詩のなかに繰り返されている。「以外で大変な」「取り返しのつかない」。そういうような意味を持っている。最後に「富んだことである」と音は同じだが、意味のまったく違うことばが一回だけ出てくる。軽い落語のような落ちなのだが、こうしたことば遊び、駄洒落のなかにも「誤読」の要素が隠れている。人間の願いが生きている。
自殺を決意した男が登場する最初の連。
「とんだことである」という書き出し。ここから「誤読」は始まっている。同じような意味をもったことばに「とんでもない」がある。もし、「とんでもないことである」と書きはじめたなら、この詩は最後までつづかないし、1連目自体成り立たない。
「一文なし」という表現が4行目にある。「一文なし」ということばが「とんだことである」の「とんだ」を意識の奥で揺り動かしていると言えばたぶん言い過ぎになるのだろうけれど、「とんだ」と「一文なし」は最初からかたく結びついている。「とんだことである」が「一文なし」を引き出した瞬間、「富んだことである」へと変わりはじめたのだと言った方がたぶん正しいだろう。
人間はいつでも「真実」とは違うことを思い描く。一種の習性のようなものかもしれない。お金がないときは、お金がないという「事実」に目を向けずに、お金があったなら、と考えてしまう。空想してしまう。その空想のなかに「真理」がある。金持ちになりたいという嘘偽りのないこころがある。それこそ駄洒落になってしまうが、「真理」とは「心理」だ。空想の中で、人は嘘をつかない。空想のなかには人間の切実な願いがある。
こうした空想のなかに生きている「真理=心理」は「哲学」などの固い本の中ではていねいにはあつかわれていないような気がする。しかし、そういうものをことばにしていかないと、人間はほんとうは生きられない。かなわない夢--それを「誤読」の形で他人と共有する。人間は、そんなふうにして生きてはいないだろうか。
この落語のような入沢の詩。はっと驚く「思想」、ことばのきらめきはない。そのかわりに「駄洒落」がある。駄洒落だから、もちろんくだらない。くだらないのだけれど、そのくだらなさを共有するとき、何かが動きはじめる。「思想」にならない思いが。つまり、ことばにはならない、ことば以前のことばが動きはじめる。
全体的な真実(?)(高邁な哲学、文学の正しい解釈など)ではなく、「事実」としては間違っているのだけれど、間違うことでしか伝えられない「心理の真理」というものがあり、それこそ文学がことばとしてすくい上げなければならないものなのかもしれない。「誤読」のなかには「誤読」でしか守り通せない何かがある。それを入沢は書こうとしている。
現代詩手帖に連載された「偽記憶」シリーズを読んだときから、そういう思いがとても強くなった。「偽記憶」とは「誤読された記憶」のことかもしれない。「偽記憶」は事実と照らし合わせれば「偽」であるけれど、真理と照らし合わせれば「真理」である記憶のことだと思う。
とんだことである
夏のある夜
死のうとおもった男と
死んだ気になった女と
とおい とおい 海の音は
古ぼけたオルゴールだ
死ぬことを見合せたばかりか
とんだことである
夏の夜のことだ
とんだことである
とんだことである
大いにとんだことである
死ぬことなんか忘れて
それからは
大いに仕事に精を出し大いに内助の功をあげ
大いに富んだことでるあ
大いにとんだことである
「とんだことである」が詩のなかに繰り返されている。「以外で大変な」「取り返しのつかない」。そういうような意味を持っている。最後に「富んだことである」と音は同じだが、意味のまったく違うことばが一回だけ出てくる。軽い落語のような落ちなのだが、こうしたことば遊び、駄洒落のなかにも「誤読」の要素が隠れている。人間の願いが生きている。
自殺を決意した男が登場する最初の連。
とんだことである
コーヒーと一しょに
はずかしい記憶を
のみほして一文なしの
一人の男がテーブルを立った
「とんだことである」という書き出し。ここから「誤読」は始まっている。同じような意味をもったことばに「とんでもない」がある。もし、「とんでもないことである」と書きはじめたなら、この詩は最後までつづかないし、1連目自体成り立たない。
「一文なし」という表現が4行目にある。「一文なし」ということばが「とんだことである」の「とんだ」を意識の奥で揺り動かしていると言えばたぶん言い過ぎになるのだろうけれど、「とんだ」と「一文なし」は最初からかたく結びついている。「とんだことである」が「一文なし」を引き出した瞬間、「富んだことである」へと変わりはじめたのだと言った方がたぶん正しいだろう。
人間はいつでも「真実」とは違うことを思い描く。一種の習性のようなものかもしれない。お金がないときは、お金がないという「事実」に目を向けずに、お金があったなら、と考えてしまう。空想してしまう。その空想のなかに「真理」がある。金持ちになりたいという嘘偽りのないこころがある。それこそ駄洒落になってしまうが、「真理」とは「心理」だ。空想の中で、人は嘘をつかない。空想のなかには人間の切実な願いがある。
こうした空想のなかに生きている「真理=心理」は「哲学」などの固い本の中ではていねいにはあつかわれていないような気がする。しかし、そういうものをことばにしていかないと、人間はほんとうは生きられない。かなわない夢--それを「誤読」の形で他人と共有する。人間は、そんなふうにして生きてはいないだろうか。
この落語のような入沢の詩。はっと驚く「思想」、ことばのきらめきはない。そのかわりに「駄洒落」がある。駄洒落だから、もちろんくだらない。くだらないのだけれど、そのくだらなさを共有するとき、何かが動きはじめる。「思想」にならない思いが。つまり、ことばにはならない、ことば以前のことばが動きはじめる。
全体的な真実(?)(高邁な哲学、文学の正しい解釈など)ではなく、「事実」としては間違っているのだけれど、間違うことでしか伝えられない「心理の真理」というものがあり、それこそ文学がことばとしてすくい上げなければならないものなのかもしれない。「誤読」のなかには「誤読」でしか守り通せない何かがある。それを入沢は書こうとしている。
現代詩手帖に連載された「偽記憶」シリーズを読んだときから、そういう思いがとても強くなった。「偽記憶」とは「誤読された記憶」のことかもしれない。「偽記憶」は事実と照らし合わせれば「偽」であるけれど、真理と照らし合わせれば「真理」である記憶のことだと思う。