詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョージ・ミラー監督「ハッピーフィート」

2007-04-07 13:24:37 | 映画
監督 ジョージ・ミラー 出演(声)イライジャ・ウッド、ブリタニー・マーフィ、ヒュー・ジャックマン、ニコール・キッドマン、ヒューゴ・ウィーヴィング

 CGの力、楽しさに圧倒される。
 楽しいのは主人公たちが最初に魚を獲る海のシーン。はじめての海。大喜びで泳ぎ回る。そのときの泳ぎ。アクロバット飛行のように編隊を組んで泳ぐ。水泡が飛行機雲のように軌跡を描く。思わず声を出して笑ってしまった。ああ、そうなんだ。空を飛べないペンギンにとって海の中こそが空なんだ。空を自由に飛び回る鳥のように、ペンギンは真っ青な海の中を飛んでいる。
 ジョージ・ミラー監督は心底ペンギンを愛している。ペンギンになりきっている。海の中でペンギンたちはこんなに楽しんでいる。生きるということは楽しいことなんだ。
 海の中で、ペンギンたちはサーフィンの巨大な波を描く。そのパイプの中をサーファーのようにペンギンが波乗り(?)する。海の中での波乗り? 変でしょ。変なところがすごい。ペンギンになりきらなければ、この楽しさはわからない。
 いつまでもいつまでも見ていたい夢のようなシーンだ。
 氷の上でも、もちろんペンギンたちは遊ぶ。氷の崖を滑って滑って滑りまくる。ジェットコースターである。ひねりもあれば宙返りもある。遊園地のジェットコースターとは違って巨大な氷が追いかけてくるというスリルもある。冒険さえも遊びなのだ。遊びはあらゆることろにある。生きることは遊ぶことだ。
 この楽しい遊びをスピード感あふれるアニメが描き出す。ペンギンの動きもすばらしいが、その背景の海、氷、南極の映像も美しい。透明で純粋だ。ペンギンは、こういう美しい世界で、こんなに楽しく生きている……。

 映画なので、ここにちょっとした物語が絡んでくる。ペンギンの食料難。自然破壊。そしてペンギン同士の恋も。主人公が後を追ってくるガールフレンドを追い払うシーンはとても傑作である。二人の会話を主人公の連れがあれこれ解説する。恋のやりとりは他人が解説すると、とてもおもしろい。ほんとうは違うのに、そういうしかない。愛しているから嘘をつく。その機微をさらりと解説することで、恋愛のべたべたしたセンチメンタルをふりきりながら、同時によりはっきりしたものにする。恋、愛って、そういものさ……。ああ、ここでもペンギンの気持ちになりきってしまう。ジョージ・ミラー監督はほんとうにペンギンが好きなのだ。
 こういうペンギン大好き大好きという映画を見ると、つられてペンギン大好きという気持ちになる。

 もちろん映画だからハッピーエンディング。
 ジョージ・ミラー監督のように、人間がペンギン大好き、ペンギンはかわいい。ペンギンを守らなければ……という気持ちになることでペンギンたちの不幸は終る。
 そのラストシーン。ここでもCGが大活躍だ。何万匹のペンギンが歌って踊る。手書きアニメでは絶対に不可能と思われる滑らかな動き、その量。量の多さだけハッピーな感じも膨れ上がる。私がハッピーならあなたもハッピー。私とあなたがハッピーならみんながハッピー。クレジットタイトルに出てくるペンギンたちに合わせて思わず足が動きはじめる映画だ。

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入沢康夫と「誤読」(メモ4)

2007-04-07 12:49:42 | 詩集

 「Ce jour-la」。(谷内注・原文にはアクセント記号がある)。この詩はどう説明していいのかわからないが、とても気になる。

ひどくあたりまえの僕たちだった とてつもなく巨きな
青銅の像が僕たちの上にたおれかかり そうして
世界が変った もはや僕たちは知らない この世界から
どうはなれてよいかを (その朝
僕たちは 一つがいの鳥になって飛ぼうとしたの
だったのに) 森はもえ上っていた 蝋細工のように……
僕たちは知らない やけしんでいく
森のけだものたちをどう救い出すかを 第一
僕たちはもう はなればなれだった 僕は君の
眠りのない夢の中に存在していなかったし 一人で
坂をかけおり 泉のほとりで自分を
病人だと おもいたかったのだ けれどさっき
世界は変って 泉なんぞどこにあることか 両腕の中に
僕が必死に支えたのは もう何千マイルも遠くにいる君の
黒パンみたいな 肉体じゃなかったかしら

 おわりから4行目の「おもいたかったのだ」ということばに惹かれる。抒情がここから始まっていると感じる。
 「おもいたかった」ということは、現実はそんな具合にはならなかったということだろう。「おもいたかった(けれどおもえなかった)」。書かれていない「けれど」のなかに本心が隠されている。隠すことで伝える抒情、隠しているものを浮かび上がらせる抒情がここから始まっている。
 書かれていない「けれどおもえなかった」が事実だとすれば、「おもいたかったのだ」は隠すことのできない欲望を主語とする「誤読」である。「病人」は「誤読」された入沢自身の姿である。自分自身を「誤読」する--そういう抒情があるのだ。

 「誤読」は自分自身だけではなく、「君」をもふくむ。
 世界が変った。何をしていいか「知らない」。「一つがいの鳥になって飛ぶ」という空想は「僕と君」のふたりによって思い描かれた夢かどうかわからない。「僕」がひとりで見た夢かもしれない。その空想さえも「一つがいの鳥になって飛ぼうとしたの/だったのに」というように、実現しなかった。空想にさえならなかった。「誤読」の「空想」だった。

 すべての事柄は「過去形」で語られ「知らない」だけが「現在形」で語られる。そして、「知らない」の対極にあるのが「おもいたかった」という気持ちなのだ。
 「誤読」がつくりあげていく「抒情」。あるいは「抒情」のなかには「誤読」が潜んでいるというべきか。「抒情」が読者のこころに忍び込むのは、「誤読」された世界を愛する気持ちが読者のなかにもあるからだろう。事実よりも、「誤読」するこころのなかに動いている願いを共有したい思いがあるからだ。

 「僕たちはもう はなればなれだった 僕は君の/眠りのない夢の中に存在していなかったし」という行を読むとき、読者のこころにいきいきと見えてくるのは、「君の夢の中、満足して眠る眠りの夢の中に存在する僕」の姿である。ほんとうの夢がかなえられず、それは存在しないと告げるしかない悲しみ。その抒情。

 「おもいたかった」は、それ自体は「誤読」ではない。「思った」方が「誤読」である。しかし、「誤読」せず、「おもいたかった」と書く方が、はるかに「誤読」への願望が強くあらわれている。
 --ここに抒情詩の不思議な何かがある。
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