詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ6)

2007-04-16 12:36:07 | 詩集

 『夏至の火』(1958年発行)。
 「思う」ということばを入沢はどんなふうにつかっている。「樹木 その他」のなかの「石」という断章。

石の上で蜥蜴(とかげ)が眠り 蜥蜴の下で石が眠つていた 眠つ
たまま石は縦横に走ることができる それというのも石
は眼ざめている時は身動き一つできないのだから 動け
ないくせに眼ざめている時石は自分を雲だと思い また
野鼠だと思ったりする

 眠っているとき、つまり意識がないときではなく、目覚めているとき、意識がはっきりしているときに「石は自分を雲だと思」う。このときの「思い」は事実とは違う。事実ではないことを「思う」。「思う」とは事実をねじまげることである。事実を否定することである。意識的に「誤読」することが「思う」なのだ。石は自分を石ではなく雲だと「誤読」する。自分自身を「誤読」することが「思う」なのだ。
 しかも、この「誤読」には、もうひとつ特徴的なことがある。
 「また/野鼠だと思ったりする」。その「また」。「誤読」は複数存在する。そしてそれは同等の「誤読」である。ひとつの「誤読」のなかへ突き進んでゆくのではなく、複数の「誤読」をかかえこむ。
 「誤読」した「内容」(雲、野鼠)に意味があるのではなく、「誤読する」という動作(動詞)に意味がある。「内容」ではなく、「誤読する」ということこそ、入沢は欲している。
 「思う」とは「誤読する」ことだ。動きだ。動きのなかにあるエネルギー、動きを成立させる力--そういうものを入沢は明るみに出そうとしている。
 「雲」と「野鼠」は明らかに違った存在である。しかし「誤読する」というエネルギーにとっては、それは同等のものである。「石」であることを否定し、石以外のものへ向けて自分自身を変形させる意志が「誤読」である。
 「世界」を変える--これは「革命」である。世界をそのままにして自己を変える。そういう「誤読」とは、それではいったい何だろう。何と呼べばいいのだろう。今はまだ私にはわからない。 



 「自己改革」「自己変革」としての「思う」。それと対比してみたいことばがある。「考える」。「樹」のなかに出てくる。

ポータブルタイプライターを持った甚だ非個性的な娘が
街角に立つて突然聞えてきた会話に--無遠慮な会話に
当惑している 彼女は自分がかつて樹であつたことを知
つている人があろうとは考えもしなかつた

 自分自身については「思う」が、他人については「考える」。正確に使い分けているかどうかはこの2例だけでは判断できないが、入沢は「思う」と「考える」を使い分けているかもしれない。「思う」は「こころ」で思う。「考える」は「頭」で考える。そういう使い分けがあるのではないか。(これは、私の予測である。すぐに判断できるほど、私はていねいに入沢のことばを読んで来なかった。)
 自分自身については「誤読」するが、他人については「誤読」しない。「誤読」の対象はあくまで自分自身、自分の思いを優先させることが「誤読」なのである。

 この詩は、「彼女」が「自分がかつて樹であつた」と「誤読」している作品だ。そんなふうに自分を「非個性的」(特別な)人間だと「誤読」している。タイプがへたなのは、彼女が樹であったせいだと「誤読」しようとしている。
 その「誤読」するこころを見透かしたように、たとえば同僚の誰かが「まるで彼女の指は樹木の枝のように固い。スムーズに指が動かない。だからタイプがへたなんだ」と陰口をたたく。その陰口、批判のなかに「樹木」という「比喩」が出てくる。他人の「比喩」と彼女自身の「誤読」が重なり合う。そのことに彼女は驚いている。

 「比喩」とはまた、そこにあるものを、そこにないもので把握することである。そこにも事実のねじまげがある。「比喩」にもほんとうは、その比喩を使ったひとの「思い」が込められている。他人の「思い」と自分の「思い」が重なっている。そのことを彼女は「こころ」で「思う」のではなく、「頭」で正確に「考える」(判断する)。「考える」は「理性」の運動である。

 「比喩」にしろ「思う」(想像力)にしろ、それは今、ここにあるものとは違うものをありありと感じることだ。その「ありあり」のなかには、つねに「こころ」がある。事実とは無関係に、かってに動いてしまう欲望がある。「比喩」「想像力」のなかには、人間の根源的な生きる力のようなものがある。「誤読」でしか共有できない何かがある。
コメント
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