詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーヴン・フリアーズ監督「クィーン」

2007-04-24 23:51:28 | 映画
監督 スティーヴン・フリアーズ 出演 ヘレンミレン、マイケル・シーン、ジェイムズ・クロムウェル

 美しいシーンがある。ヘレン・ミレン(クィーン)がひとりで車を運転し、鹿狩りをしている山へ行く。川で車が故障する。迎えが来るまで岩(?)に腰掛け待っている。山と川と、冷たい空気。誰もいない自然のまっただなかで、こみ上げてくるものをこらえきれずに嗚咽する。カメラは背後から姿をとらえている。肩が動く。頭が動く。嗚咽が聞こえる。静かなバックグラウンドミュージックがあったかもしれない。風の音もあったかもしれない。風の音さえ聞こえてきそうな静かな山の中である。その音、あらゆる音が一瞬、消える。
 無音。
 不思議なことに、無音を聞いた、無音が聞こえた、と感じてしまう。
 沈黙の音かもしれない。
 この音、沈黙を聞くのは観客だけなのだが、あたかもヘレン・ミレンもその音を聞いたかのように、はっと顔をあげ、振り返る。
 そこに鹿がいる。角が14(だったかな?)に分かれた巨大な、立派な鹿だ。ヘレン・ミレンと鹿が見つめ合う。ヘレン・ミレンは何かことばを発しそうになるが、何も言えない。鹿も何も言わない。沈黙がつづく。
 鹿が何を考えているか、何を感じているかはわからない。遠くでライフルの音が聞こえる。鹿は鹿狩りがおこなわれていることも知らない。ヘレン・ミレンは鹿に逃げろ、と言う。しかし、ことばは通じない。
 ヘレン・ミレンが他の音に振り返り、もう一度目をもどしたときは鹿はいない。

 この鹿とヘレン・ミレンはもう一度対面する。このシーンも美しい。
 鹿は後日撃たれ、とらえられた。それを見に行く。首から上を切られ、天井からぶら下げられている。首がなくても、巨大で、美しく、威厳がある。首は台の上にのせられている。角は出会ったときのままの形をしている。ヘレン・ミレンは鹿の顔に銃弾のあとを見つける。そっと触れる。
 至近距離から撃たれたと聞き、「苦しまなかったのね」と言う。

 鹿はヘレン・ミレン自身である。鹿のこころを知らない人間によって殺される。ヘレン・ミレン自身は鹿と違って生きているが、彼女の中で護ってきたものは「死ぬ」。死ぬことによって、鹿はヘレン・ミレンのこころのなかにいつまでも生き続ける。同じように、ヘレン・ミレンも「死ぬ」ことによって、もう一度国民のなかに「生きる」。そんなことを考えたかどうかは、この映画は何も言わないが、鹿の死とヘレン・ミレンの「死」が重なり合う。美しく、威厳をもったまま。
 そして、威厳をもったまま死ぬということがどんなに難しいことか、ということが、ふっと浮かび上がる。そのとき、ヘレン・ミレンのふともらしたことばが胸に突き刺さる。「苦しまなかったのね」。死が苦しくないはずがない。人が願うことができるのは、その死の苦しみが短くあることだけだ。


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宮崎亨「森」

2007-04-24 23:05:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 宮崎亨「森」(「ガニメデ」39、2007年04月01日発行)。

梅雨の長雨を吸いこんだ森に雨が降り、厚い葉の茂みに吸収しきれ
 ない雨粒が、木々の根元にこぼれ落ちている。

 書き出しの1行。たいへん魅力的である。私は繰り返し5度読んだ。6度目を読もうとして、あ、このままだと終わらないと感じて、次の行へと進んだ。
 何が魅力的か。
 「雨」の繰り返しである。「梅雨」のなかの「雨」も含めると4回も使われている。しかも、その「雨」は書く度に「雨」の形がかわっていく、書くことで違った「雨」が見えてくるというものでもない。「同じまま」「同じこと」をずるずると書いている。
 それなのに、あるいはそれゆえに魅力的だ。「同じまま」「同じこと」を書けるというのは、不思議だ。不思議さに魅了されたのかもしれない。
 さりげなく「木々の根元にこぼれ落ちている」と変化するが、「雨」が天から地へと動くという、その動きは「雨」そのもののなかに最初から含まれているので、変化したという印象が非常に弱い。雨はいつだって天から地へと降り、より低い方へと流れていくことはだれもが知っている。「同じまま」「おなじこと」というのは、そういう意味である。いつまで、これをつづけられるかな、という興味がわいてくる。不思議はいつまでつづくのだろうという興味がわいてくる。
 2行目以降。

雨以来、仮死したように眠っている森の、暗い底に細い道が刻まれ
 ている。
道は、蟻の巣穴のような迷路の集合だが、それぞれの道にはそれぞ
 れ異なった時間が流れている。

 あいかわらず「同じまま」「おなじこと」だ。
 場面はたしかに少しずつかわっているといえばかわっているのだが、私には、やはりかわっているとは感じられない。
 2、3行目では「雨」のかわりに「道」(省略されているが「雨の道」と書くのが正確だろう)が繰り返されている。そして、その「雨の道」もだれもが知っている「雨の道」である。「それぞれの道にはそれぞれ異なった時間が流れている」が、「木々の根元にこぼれ落ちている」と似た感じで、すこし動いた印象だが、かわらない、「同じまま」「同じこと」という印象が強い。「道」が「雨の」を省略した形で引き受けいてるから、なおのこと「同じまま」「同じこと」という印象が強いのだと思う。
 「同じまま」「同じこと」を繰り返すことができる--というのが宮崎の文体の特徴である。
 そして、そんなふうに思わせておいて(同じまま、同じことだけを繰り返すと思わせておいて)、宮崎は、するっと世界をひっくりかえす。

密生の森に隠蔽された時間カプセルの中では、時の流れが歩くとい
 う行為に置き換えられていて、
迷い込んだ者の、寒さや疲れといった外界で起こるべき感覚は麻痺
 し、時計の針になったように歩かねばならない。

 「道」が「雨の道」であったように、4行目の「時間」は「雨の道の時間」である。前に書かれた要素が省略された形で引き継がれ、引き継がれながら、少しずつ重点をかえてゆく。1行目の「梅雨」に含まれている「雨」が「雨粒」という形で引き継がれ、その「粒」が「木々の根元にこぼれ落ちている」とつづくように。
 そんなふうに「雨」「道」で繰り返したことが延々とつづいていると信じ込ませておいて、するっと「森」ではなく「肉体」へと視点を動かしていく。「肉体」をことばで耕しはじめる。「雨」「森」を描いた文体と「同じまま」の文体で「肉体」を描く。すると「肉体」が「雨」「森」と「同じこと」にかわってしまう。
 あ、これこそが宮崎のやりたいことだったのだとわかる。
 この世界へ引き込むために、宮崎は1行目の、繰り返しの多い、ずるずるとした文体をつくりあげたのだ。ずるずるとしながら、最後のひとことで、ずるずるつづいていながらすっと横へ(深みへ?)動いてしまう文体を作り上げたのだ。
 ここまで読んで、私は、また最初の1行を読み返してしまった。6度目である。
 あとはもう、宮崎の作り上げた文体にのったまま、どこまでが「同じまま」「同じこと」なのかを味わうだけである。他人から見れば「同じまま」「同じこと」ではないものが、宮崎の文体の中では「同じまま」「同じこと」としてつながっている。いや、宮崎の文体が「同じまま」「同じこと」としてつないでゆく。
 世界は「同じまま」「同じこと」である、と信じさせる力が文体である。
 「何と」同じか。
 「雨」と、あるいは「森」と。
 しかし、その「同じまま」「同じこと」が、たとえば「雨」、たとえば「森」ではなく、宮崎自身と(宮崎の肉体と、そして宮崎の精神と)「同じまま」「同じこと」であるというところまで進んでしまうと、それは宮崎の「個性」(思想)となる。
 宮崎は、そこまで進んでしまう。長くなるので、詩のつづきは省略する。「ガニメデ」で読んでください。
 文体は思想である、と久々に実感した。

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