監督 エドワード・ズウィック 出演 レオナルド・ディカプリオ、ジャイモン・フンスー、ジェニファー・コネリー
レオナルド・ディカプリオはあいかわらず透明感がある。彼の演技を見ていると、いつも、その透明感の向こうに自分のこころが見るような錯覚に陥る。たとえば「ギルバート・グレイプ」。ディカプリオの演技、肉体、こころを見ているはずなのに、自分自身のなかにある「純粋な何か」を見たような気持ちになる。肉体をとりはらって、こころの闇をとりはらって、無防備なままそこに存在している感情--それをみつめている気持ちになる。肉体の動き、表情に同化するというより、こころそのものに同化してしまうような錯覚に陥る。こういう役者の場合、「純粋な少年」がとても似合う。そして、「不透明な男」は似合わない。「タイタニック」も「アビエーター」さえも「純粋な少年」だった。「不透明な男」ではなかった。「ディパーテッド」も嘘に嘘を重ねて生き抜く恐怖のなかに「純粋な少年」が生々しい形ででていた。小学生の感想文ではないが「自分だったら……」と引き込まれていく神経のぴりぴりした感じに「純粋な少年」がでていた。
「ブラッド・ダイヤモンド」も最後は「純粋な少年」になるのだが、ちょっとなあ……と思ってしまう。
最後にみせる「純粋な少年」によって映画のメッセージを強調するというのは、あざとくはないか。「少年の純粋さ」によって世界を動かすというのであれば、家族を奪われ、反政府軍(解放軍?)の少年兵にさせられてしまった少年の視点から映画をつくりなおすべきだろう。
ダイヤモンドによって自分の生活を一変させる--そういう一攫千金の夢のために何でもする男、「不透明さ」を押し出し、誰にもこころをみせない、そういう人間をどんなふうにディカプリオが演じるのか興味があったが、やはりそういう人物像をディカプリオは演じることができなかったというか、そういう展開の映画にはならなかった。
最後はただただ「純粋な少年」になってしまう。
映画ではていねいには描かれていないが、ジェニファー・コネリーの告発記事も、ジャイモン・フンスーの告発演説も、最後のよりどころというか、論点の底にディカプリオがみせた「純粋な少年」がいる。もちろん映画を見ている観客の「ダイヤモンドは血によごれている」という意識、「ダイヤモンドは買うまい」という意識の底にも「純粋な少年」としてのディカプリオがいる。ディカプリオが自分を犠牲にしてジャイモン・フンスーを救った、その行為にこたえるためにも「ダイヤモンドは買うまい」という意識が動く。
こういう意識の動かし方、操作というのは、私はどうも好きになれない。
ディカプリオが最後にみせた純粋さ(少年の純粋さを通り越して人間の純粋さ、かもしれないけれど)への共鳴ではなく、前半部分の悪人・ディカプリオへの批判がダイヤモンドを買わないという動きにつながらないかぎり、この映画で描かれている不幸はなくならない。同情・共感は大切なものだが、同情・共感ではなく、批判によって社会をしっかり見つめなおすという視線が必要だ。批判力を育てるという形で映画が展開しないかぎり、「ハリウッド映画」で終わってしまう。
*
閑話休題。
この映画でディカプリオはアカデミー賞の主演男優賞の候補になった。この作品でノミネートされた瞬間からディカプリオは賞を逃していたのは明白だ。
アカデミー賞は「対」がとても好きな賞である。「キング」に対して「クィーン」は最初から決まっている。「キング」がアフリカの実在の「悪人」なら、その対抗馬もアフリカの「悪人」でなければならない。「ディパーティッド」のような「善人」であっては比較の対象として困るということだろう。
またアカデミー賞はいつでも「実在」の人物が好きだ。実在の人物にどれだけ接近するか。演技というのは「ものまね」ではないはずなのに、アメリカでは「そっくり」が評価の重要な基準になっているようだ。昨年の主演男優、女優も実在の人物を演じ、ことしもまた実在の人物であった。
レオナルド・ディカプリオはあいかわらず透明感がある。彼の演技を見ていると、いつも、その透明感の向こうに自分のこころが見るような錯覚に陥る。たとえば「ギルバート・グレイプ」。ディカプリオの演技、肉体、こころを見ているはずなのに、自分自身のなかにある「純粋な何か」を見たような気持ちになる。肉体をとりはらって、こころの闇をとりはらって、無防備なままそこに存在している感情--それをみつめている気持ちになる。肉体の動き、表情に同化するというより、こころそのものに同化してしまうような錯覚に陥る。こういう役者の場合、「純粋な少年」がとても似合う。そして、「不透明な男」は似合わない。「タイタニック」も「アビエーター」さえも「純粋な少年」だった。「不透明な男」ではなかった。「ディパーテッド」も嘘に嘘を重ねて生き抜く恐怖のなかに「純粋な少年」が生々しい形ででていた。小学生の感想文ではないが「自分だったら……」と引き込まれていく神経のぴりぴりした感じに「純粋な少年」がでていた。
「ブラッド・ダイヤモンド」も最後は「純粋な少年」になるのだが、ちょっとなあ……と思ってしまう。
最後にみせる「純粋な少年」によって映画のメッセージを強調するというのは、あざとくはないか。「少年の純粋さ」によって世界を動かすというのであれば、家族を奪われ、反政府軍(解放軍?)の少年兵にさせられてしまった少年の視点から映画をつくりなおすべきだろう。
ダイヤモンドによって自分の生活を一変させる--そういう一攫千金の夢のために何でもする男、「不透明さ」を押し出し、誰にもこころをみせない、そういう人間をどんなふうにディカプリオが演じるのか興味があったが、やはりそういう人物像をディカプリオは演じることができなかったというか、そういう展開の映画にはならなかった。
最後はただただ「純粋な少年」になってしまう。
映画ではていねいには描かれていないが、ジェニファー・コネリーの告発記事も、ジャイモン・フンスーの告発演説も、最後のよりどころというか、論点の底にディカプリオがみせた「純粋な少年」がいる。もちろん映画を見ている観客の「ダイヤモンドは血によごれている」という意識、「ダイヤモンドは買うまい」という意識の底にも「純粋な少年」としてのディカプリオがいる。ディカプリオが自分を犠牲にしてジャイモン・フンスーを救った、その行為にこたえるためにも「ダイヤモンドは買うまい」という意識が動く。
こういう意識の動かし方、操作というのは、私はどうも好きになれない。
ディカプリオが最後にみせた純粋さ(少年の純粋さを通り越して人間の純粋さ、かもしれないけれど)への共鳴ではなく、前半部分の悪人・ディカプリオへの批判がダイヤモンドを買わないという動きにつながらないかぎり、この映画で描かれている不幸はなくならない。同情・共感は大切なものだが、同情・共感ではなく、批判によって社会をしっかり見つめなおすという視線が必要だ。批判力を育てるという形で映画が展開しないかぎり、「ハリウッド映画」で終わってしまう。
*
閑話休題。
この映画でディカプリオはアカデミー賞の主演男優賞の候補になった。この作品でノミネートされた瞬間からディカプリオは賞を逃していたのは明白だ。
アカデミー賞は「対」がとても好きな賞である。「キング」に対して「クィーン」は最初から決まっている。「キング」がアフリカの実在の「悪人」なら、その対抗馬もアフリカの「悪人」でなければならない。「ディパーティッド」のような「善人」であっては比較の対象として困るということだろう。
またアカデミー賞はいつでも「実在」の人物が好きだ。実在の人物にどれだけ接近するか。演技というのは「ものまね」ではないはずなのに、アメリカでは「そっくり」が評価の重要な基準になっているようだ。昨年の主演男優、女優も実在の人物を演じ、ことしもまた実在の人物であった。