詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ8)

2007-04-29 23:45:28 | 詩集
 入沢康夫『古い土地』(1961年)。
 「平原の街づくり」。
 この作品にはいくつもの数字が出てくる。「五本」「一団」「一つ」「三頭」「三十人」「一人」「二十数本」。「沢山」も数を含んだものと考えていいかもしれない。「七月」「九月」も数の内に入るかもしれない。
 何のためにこんなに「数」が出てくるのだろうか。複数は何を表したくて書かれているのだろうか。
 4連目。

それにしても水の鈍い光り ここには三頭の牝馬がおり
そして三十人あまりの男たちがいて こも包みにされた
鋼鉄の機械を次々に竪坑に運び込む 林のかげになつて
ここからはほんの少ししか見えない丘 右手には油の浮
いた薄い刃の群落 そこにあなたではないもう一人の娘
がいて悲しい眼付きで歌つているはず あなたの姉 幼
い時あなたが追い出したのだが あなたは覚えてはいま


 「そこにあなたではないもう一人の娘がいて悲しい眼付きで歌つているはず」。不在の「一人」(一)を浮かび上がらせるために、多くの数が書かれているように私には思える。「五本」も「三頭」「三十人あまり」「二十数本」も意味はない。あるいは「不在の一」も、そうした複数の数と同じように「実在」するということ、実在も不在も同等であるということを暗示するために複数の数が書かれているように思える。この詩において重要なのは「あなたではないもう一人の娘」の「もう一人」だからである。三人でも五人でもない、「もう一人」。
 あるいは、この詩において重要なのは「もう一人」の「もう」というべきかもしれない。「もう」という意識。「さらに」という意識。ここにあるものを超えて、何かを引き寄せる意識。
 「誤読」は、この「もう」からはじまっているのだ。様々な数は「もう一人」の「もう」を引き出すための呼び水である。
 「もう一人」を修飾する「あなたではない」の「ない」も重要である。ここにあるもの、存在するものを「ない」ということばで否定して、「もう」へと突き進む。「もう」は現実ではない。現実を超越した世界なのだ。
 この一文は「はず」という断定で終わる。事実ではなく、想像で終わる。想像の断定で終わる。「はず」は予定や道理を踏まえた結論だから、それは「誤読」とはいえないかもしれない。しかし、私は「誤読」だと思う。
 この詩には「事実」など何も書かれていない。そうあってほしいという「願い」(思い)だけが描かれている。
 「あなたは覚えてはいまい」の「まい」も同じである。ここに書かれているのは「気持ち」なのである。「気持ち」は事実を重視しない。「気持ち」は事実を超越して動く。「事実」を「誤読」して動く。
 これは「気持ち」は「事実」とは独立して存在する、ということを意味する。「事実」がどうであれ、「気持ち」は「気持ち」なのである。そして、「気持ち」をことばにすることこそ、文学である。

 最終連。

九月 鮮度の低い物質の奔流がすべて死んでゆく者の躰
を急激に通過し すでに去つた者の記憶を更に追いたて
る 埃 金属の灼ける匂い そしてあなた あなたに言
わなければならない 私もまたここに来た あなたに勝
つために そして更に遠いあなたに勝つために と

 「事実」と「気持ち」、「記憶」と「気持ち」。「事実」と「記憶」が違うことがある。「記憶」には「気持ち」が含まれているため、「事実」をねじまげてしまうのである。そのため奇妙なことが(けっして奇妙ではないともいえるが)起きる。
 私たちは絶対に「事実」に追いつけないのである。「事実」と相まみえることができないのである。
 「私」は「あなた」に勝つためにここへ来た。しかし、「あなた」はそのとき更に遠くにいる。「気持ち」と「事実」の関係は、この「私」と「あなた」の関係そのものである。全体に「気持ち」は「事実」に勝てない。だからこそ、「勝った」姿を想像する。そんなふうに「私」の力を「誤読」して生きる。


 
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ポール・バーホーペン監督「ブラックブック」

2007-04-29 22:01:50 | 映画
監督 ポール・バーホーペン 出演 カリス・ファン・ハウテン、セバスチャン・コッホ、トム・ホフマン

 深刻なテーマをあつかっている。そのせいだろうか。演出がきわめてよくいえばオーソドックス、悪くいえば古くさい。おもしろい映像がひとつもない。映像と音楽の融合もない。
 知らない役者ばかりのせいか、唯一知っている(見た記憶がある)セバスチャン・コッホが印象に残った。「善き人のためのソナタ」で劇作家(脚本家)を演じた。目に特徴があり、善良さと哀愁がまじりあう。虐殺はもうやめにしたい。だが、とめることができない。そういう苦悩がにじみでる。いわば弱い部分だが、その弱さをつかれて最後はナチスによって処刑されてしまう。その死によって、善良さが浮かび上がる。ナチスなのだが、ナチスにもそういう善良さをかかえこんだ人間がいた、善良さゆえに死んでいくしかなかったという役どころである。もうけ役といえばもうけ役だが、そういう役どころをつかみとる顔をしているのだろう。
 カリス・ファン・ハウテンはアメリカ(ハリウッド)の役者と違って不透明である。肉体を、これは肉体であって精神ではない、ときっぱり断言できる強靱さも兼ね備えている。その強靱な不透明さがこの映画では重要な要素となっているが、あまりに強靱すぎてはらはらどきどきが伝わって来ない。殺戮を思い出し嘔吐したり、罵られて糞尿を浴びせられても、そこに弱さが見えて来ない。彼女の痛みが痛みとして伝わってこない。(私だけかもしれないが)。ケイト・ブランシェットのような透明感のある女優が演じると、もう少し違った映画になったのではないかと思う。


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