進一男『続続進一男詩集』(沖積社、2009年02月20日発行)。
『豚と私と』のなかの「豚の擁護」。その書き出しが美しい。
子豚をブータと呼ぶ単純さ。その単純さのなかに美しさがある。幼い日々の美しさがある。子豚をブータと呼ぶとき、進は豚が好きだったはずである。好きとは、このとき、おもしろいとほとんど同じ意味である。尾の形も、尻の形も、人間とは違っている。ほかの動物とも違っている。そのことがうれしかったはずである。違っているものを見て、驚き、うれしいと思うこころ--そこに美しさがあり、その美しさが「ブータ」という命名のなかにある。人は好きなものに名前をつけたい。名前をつけることで自分のものにしてしまいたい。その単純な欲望のなかにある輝かしいまでの美しさ……。
しかし、この美しさは「失われた美」である。
一瞬にして、消えてしまう。3連目。
「人間この愛すべき豚よ」。こういう意識によって「美」は失われる。そこには「ブータ」はいない。ブータと名づけた生々しい喜びもない。そのかわりに「豚」という「概念」がある。喜びから遠い、さめきった「頭」だけがある。
「概念」にも美はあるかもしれない。しかし、その美はよほど厳しくことばを動かさないと見えて来ない。
「概念」が動きはじめると、肉眼は目をつぶる。何も見なくなる。脳が、脳の中だけをみつめる。
「尾を振り尻を振り/ぶうぶう泣く」豚は姿を消す。手で触ったときの感触、いっしょに走り回ったときのでたらめな動きの楽しさは消える。汚れる楽しさ、汚くなる快感が消える。そのかわりに、「私の影」が大きくなる。「私の影」ということばが象徴的だが、「概念」というのは「影」なのだ。そこには「実体」はない。それはブータに触るようには触れない。触ることができるのは、影ではなく、影をうつしているもの、たとえば地面、たとえば壁。それは豚とは似ても似つかない。尾も振らなければ尻も振らない。そして、進を汚したりもしないし、その結果として、「汚い」とたとえば母から叱られるというようなこともない。(叱られること、母を困らすことも、子どもにとっては一種の喜びだが、そういうものはいっさい消えてしまっている。)
「概念」は命名(名前をつけること)とどこか違うか。
豚に名前をつけるとき、自分のことばで名前をつける。ところが「概念」は自分のことばではない。多くの人によってすできに共有されていることばである。他人がつかっていることばに自分の思いを合わせていく、ととのえていく、ということがおうおうにして起きる。
「豚を軽蔑してはならない」という行が6連目に出てくるが、豚と軽蔑を結びつけるというのは「概念」である。否定形で「軽蔑してはならない」とは書かれているが、ここにはすでに豚=軽蔑(侮蔑)の別称という多くの人によって共有された思いがある。
豚をはじめて自分のものと感じた喜びはここにはない。美しさはない。
私は、こういう作品が嫌いだ。
「子豚のブータが住んでいた」という美しい行がなければ、そんなに嫌いにはならないのだが、その美しい行ゆえに、この詩が嫌いだ。なぜ、こんな美しい行を書いた進が「人間この愛すべき豚よ」と簡単に書いてしまうのか。
子豚をブータと呼んだ幼い日、進は「人間」であるよりも、子豚ではなかったか。子豚そのものになっていなかったか。子豚と自分の区別がつかない幸福を生きていなかったか。区別がない世界を生きるという美しさに輝いていなかったか。
その輝きを消してゆく「影」--その「影」について語る進の気持ちが私にはわからない。
汚れる喜びを捨てて、「影」という暗い(--比喩として、汚い、でもあるのだが)けれど肉体を汚すわけではないものに、さっと身を翻してしまうのか、その気持ちがわからない。
だから、嫌いだ。
「影」は肉体を汚さない。しかし、たぶん精神を汚す。「概念」は「頭」を汚し、精神を汚す。そういうことに無頓着なまま「概念」を導入することで、何らかの「意味」を装う姿勢が嫌いだ。
*
詩集の「帯」を古賀博文が書いている。この文章に私は腹が立ってしまった。帯の文章に腹が立ってしまって、そのまま「豚の擁護」の感想を書いたので、先の感想にはかなり不当なもの(?)が含まれているかもしれない。
「一笑にふせない」とはどういう意味だろうか。無価値なものとして問題にしないということはできない、ということだろうか。こういう発言は、進の作品を無価値なものとして問題にしないという意見が存在することを前提としている。「つい感じてしまう」もなんという言い方だろうと、無性に頭に来る。
いったい誰が進の作品を一笑にふしているのか。
そして、古賀がほんとうに進の作品に切迫した意志を感じるなら、進の作品を「一笑にふしている」批評を徹底的に批判するか、あるいは完全に無視して、ひたすら進の作品を紹介すればいいだろう。なぜ、わざわざ「一笑にふしている」批評があるということを語る必要があるのだろう。「つい」などという軽いことばで、何を語ろうとしているのだろうか。「つい」、ほんのちょっと感じたことではなく、ずーっと感じ続けていることを書けばいいだろう。誰が進の作品を「一笑にふしている」のか不勉強な私にはわからないが、そのことに対して古賀が疑問に感じているなら、それは「つい感じてしまう」(ちょっと感じてしまう)というようなものではないだろう。
『豚と私と』のなかの「豚の擁護」。その書き出しが美しい。
夢を見ていた
豚軍団が襲っていた
失われた美を奪回するために
幼い日
裏庭の片隅に豚小屋があった
子豚のブータが住んでいた
子豚をブータと呼ぶ単純さ。その単純さのなかに美しさがある。幼い日々の美しさがある。子豚をブータと呼ぶとき、進は豚が好きだったはずである。好きとは、このとき、おもしろいとほとんど同じ意味である。尾の形も、尻の形も、人間とは違っている。ほかの動物とも違っている。そのことがうれしかったはずである。違っているものを見て、驚き、うれしいと思うこころ--そこに美しさがあり、その美しさが「ブータ」という命名のなかにある。人は好きなものに名前をつけたい。名前をつけることで自分のものにしてしまいたい。その単純な欲望のなかにある輝かしいまでの美しさ……。
しかし、この美しさは「失われた美」である。
一瞬にして、消えてしまう。3連目。
おお
いとしい豚よ
尾を振り尻を振り
ぶうぶう泣くものよ
私の影が丸い豚になるとき
私は私自身に呟く
人間この愛すべき豚よ
「人間この愛すべき豚よ」。こういう意識によって「美」は失われる。そこには「ブータ」はいない。ブータと名づけた生々しい喜びもない。そのかわりに「豚」という「概念」がある。喜びから遠い、さめきった「頭」だけがある。
「概念」にも美はあるかもしれない。しかし、その美はよほど厳しくことばを動かさないと見えて来ない。
「概念」が動きはじめると、肉眼は目をつぶる。何も見なくなる。脳が、脳の中だけをみつめる。
「尾を振り尻を振り/ぶうぶう泣く」豚は姿を消す。手で触ったときの感触、いっしょに走り回ったときのでたらめな動きの楽しさは消える。汚れる楽しさ、汚くなる快感が消える。そのかわりに、「私の影」が大きくなる。「私の影」ということばが象徴的だが、「概念」というのは「影」なのだ。そこには「実体」はない。それはブータに触るようには触れない。触ることができるのは、影ではなく、影をうつしているもの、たとえば地面、たとえば壁。それは豚とは似ても似つかない。尾も振らなければ尻も振らない。そして、進を汚したりもしないし、その結果として、「汚い」とたとえば母から叱られるというようなこともない。(叱られること、母を困らすことも、子どもにとっては一種の喜びだが、そういうものはいっさい消えてしまっている。)
「概念」は命名(名前をつけること)とどこか違うか。
豚に名前をつけるとき、自分のことばで名前をつける。ところが「概念」は自分のことばではない。多くの人によってすできに共有されていることばである。他人がつかっていることばに自分の思いを合わせていく、ととのえていく、ということがおうおうにして起きる。
「豚を軽蔑してはならない」という行が6連目に出てくるが、豚と軽蔑を結びつけるというのは「概念」である。否定形で「軽蔑してはならない」とは書かれているが、ここにはすでに豚=軽蔑(侮蔑)の別称という多くの人によって共有された思いがある。
豚をはじめて自分のものと感じた喜びはここにはない。美しさはない。
私は、こういう作品が嫌いだ。
「子豚のブータが住んでいた」という美しい行がなければ、そんなに嫌いにはならないのだが、その美しい行ゆえに、この詩が嫌いだ。なぜ、こんな美しい行を書いた進が「人間この愛すべき豚よ」と簡単に書いてしまうのか。
子豚をブータと呼んだ幼い日、進は「人間」であるよりも、子豚ではなかったか。子豚そのものになっていなかったか。子豚と自分の区別がつかない幸福を生きていなかったか。区別がない世界を生きるという美しさに輝いていなかったか。
その輝きを消してゆく「影」--その「影」について語る進の気持ちが私にはわからない。
汚れる喜びを捨てて、「影」という暗い(--比喩として、汚い、でもあるのだが)けれど肉体を汚すわけではないものに、さっと身を翻してしまうのか、その気持ちがわからない。
だから、嫌いだ。
「影」は肉体を汚さない。しかし、たぶん精神を汚す。「概念」は「頭」を汚し、精神を汚す。そういうことに無頓着なまま「概念」を導入することで、何らかの「意味」を装う姿勢が嫌いだ。
*
詩集の「帯」を古賀博文が書いている。この文章に私は腹が立ってしまった。帯の文章に腹が立ってしまって、そのまま「豚の擁護」の感想を書いたので、先の感想にはかなり不当なもの(?)が含まれているかもしれない。
今日までの進一男の真摯な創作活動の様態や近年の彼の出版点数の夥しさなどを鑑みるにつけ、一笑にふせない切迫した意志をつい感じてしまう。
「一笑にふせない」とはどういう意味だろうか。無価値なものとして問題にしないということはできない、ということだろうか。こういう発言は、進の作品を無価値なものとして問題にしないという意見が存在することを前提としている。「つい感じてしまう」もなんという言い方だろうと、無性に頭に来る。
いったい誰が進の作品を一笑にふしているのか。
そして、古賀がほんとうに進の作品に切迫した意志を感じるなら、進の作品を「一笑にふしている」批評を徹底的に批判するか、あるいは完全に無視して、ひたすら進の作品を紹介すればいいだろう。なぜ、わざわざ「一笑にふしている」批評があるということを語る必要があるのだろう。「つい」などという軽いことばで、何を語ろうとしているのだろうか。「つい」、ほんのちょっと感じたことではなく、ずーっと感じ続けていることを書けばいいだろう。誰が進の作品を「一笑にふしている」のか不勉強な私にはわからないが、そのことに対して古賀が疑問に感じているなら、それは「つい感じてしまう」(ちょっと感じてしまう)というようなものではないだろう。