詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木村るみ子『異邦人』、豊原清明「赤子を抱いた中也さん」

2007-04-17 12:13:20 | 詩集
 木村るみ子『異邦人』(岳文堂、2007年04月20日発行)。
 「オマージュ」の1連目の後半。

どこかで繋(つな)がっている者たちが一様に光を放ち始める
そうしてそっとわたしを囲っていたものたちを思い出す 遠い昔話のように
そこには見えない星の配置があって
ふぅっと息を吹きかければかき消えてしまう淡さ
そんなつながりが欲しかったのではないか 或いは あなたは

 「繋がる」「つながり」。「見えない」「配置」。木村は、存在の見えないつながりをことばでとらえようとしている。そのつながりは「息を吹きかければかき消えてしまう淡さ」。淡く、弱いものであるからこそ、ことばにして定着させようとするのだろう。ここに木村の「詩」がある。「思想」がある。

そこにあるのは小さな花の環(わ)
記憶を引き寄せてはたどる無明の軌跡
それでも浮かび上がるおぼろな輪郭線

 これは「揺らぎ」の書き出しである。「小さな」「花」「おぼろ」。木村のことばは同質なものに「つながり」を求めている。同質なもののなかに存在する透明、はかない、弱いもののつながりを探している。この姿勢が一貫しているので作品はとても落ち着いている。
 それはそれでいいのだと思う。
 一方、何か物足りない。
 「つながり」というのは同質なもののなかにはもちろんあるのだが、異質なもの、たとえば花や星を踏みにじるものと花、星のあいだにもつながりがある。そういうものを取り込んで、世界を活性化し、自分をつくりかえていく--詩を書き終わったとき、詩を書くまえの木村とは違った木村に生まれ変わっている、ということもこれからは必要なのではないか、と思った。



 豊原清明「赤子を抱いた中也さん」(「白黒目」5、2007年04月発行)。
 豊原は異質なもののつながりを描いている。「わからない」ものを「わからない」まま書いている。「わからない」のになぜ書けるかというと、それが肉体に響いてくるからだ。見える。聞こえる。感じる。「見えないつながり」はもちろん見えるはずがない。ただし、それは小さく、弱いつながりだからではない。巨大で強すぎるから見えない。豊原にとって「つながり」は目の前の巨大な壁だ。豊原は、その巨大なつながりをたたく、よじのぼる、ねころんでふてくされる。そのとき、豊原の肉体が、そのまま感情となってあらわれる。
 私たち人間は「感情」をいくらことばで説明してもらっても実感できないのに、肉体についてなら何の説明もなしに納得してしまう。腹をかかえてうずくまっている人間を見れば、腹が痛いのだとわかる。自分の痛みでもないのに痛みがわかる。「みえないつながり」は私たちを一気にのみこんでしまう。「つながり」のなかへ人間を引き入れてしまう。
 「つながり」は木村のように外から眺めるものではなく、豊原のように、その巨大さのなかにのみこまれることで実感するのもなのだ。実感を強靱なロープ、巨大すぎて壁とすら思えるものにぶつかり、そこから出ていこうと悪戦苦闘する。そのときの肉体の、なにやかや、ことばにできない汗のようなものの苦しみと、同時に不思議な快感がとても楽しい。(楽しい、と書くと、豊原に申し訳ないけれど……。)
 「赤子を抱いた中也さん(一)」の冒頭。

吐息をつく度にひとつのため息が
ドブの辺りに集まって
綿飴のように
ベタベタとして
ますます憂鬱の度合いが
増してくる。
力の尽きた、団地の四階
女を抱いたこともない
くやしさは
梅の木の下、赤子のように笑う。

 「女を抱いたこともない/くやしさ」と「梅の木」はなんの関係もないように見えるかもしれない。しかしそうではなく、巨大な「つながり」のなかにのみこまれていて、その「つながり」の突破口が「梅の木」なのである。「つながり」という巨大なロープをよじのぼったのか、あるいは巨大な「つながり」という壁をぶち破ったのか、ふいに吹いてきた風のようなさわやかさ。その唐突さが、いつも気持ちがいい。
 「赤子のように」は「赤子になって」という意味である。「比喩」ではない。「事実」なのだけれど「事実」として書くと、世界がおかしくなってしまうので、世界のためを思って「比喩」の形で書いているだけなのである。
 詩を書くことで、巨大なつながりのなかから脱出する。脱出しながら豊原は「中也」になり「赤子」になる。生まれ変わる。

コメント
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