小長谷清実「赤ん坊の小指ほどの」(読売新聞2007年03月27日夕刊)
「きょう 歩く瞼(まぶた)の/片隅に」。
この2行に驚かされる。「歩く瞼」。瞼が歩くわけがない。歩いているとき瞼の片隅に、というのが正確な(?)日本語だ。でも、それでは詩にならない。
小長谷の詩の特徴は、行から行へ、ことばがずるずるっとずれてゆくときの、不思議なずれの感じにある。
何か違う。普通はこんな風にいわない。でも、これくらいのずれならいいか、と思ってしまうような微妙なずれ。ずれているんだけれど、ずれない形もすぐに想像がつくという感じのずれ。それが巧みに読者を小長谷ワールドへ引き込んでゆく。
「片隅」「かすかに」「細い」「わずかな」「からくも」「あるかなきかの」――このしつこいまでの、細部へ細部へと誘うことば。それに「先」「梢」「先端」という目をこらさないとわからないものが追い討ちをかける。
ずるずると、しかしどこまでも微妙に。
そのことばに誘われるまま読んでしまう。
そして。
この部分がとても美しい。「ふるえを/ふるえだけを」。この音楽の美しさに、私は参ってしまう。「意味」が問題なら、「ふるえ」の繰り返しは不必要だ。意味ではなく、小長谷は音楽を書きたいのだと思う。「書こうかと/考えてみた」のか行のゆらぎなど、なんでもないようだけれど、不思議に口が動いてしまう。舌が動き、のどが動く。
こういう楽しさを味わった後では、「赤ん坊」云々なんてどうでもいい。こう書くと小長谷に失礼になるだろうか。
「ふるえ」ということばが何やら象徴的に感じられるのだが、小長谷はことばの音楽のバイブレーションの繊細さを詩で確立したいと思っているのではないかと私は想像した。
昨日もここを通ったのに
何も気がつかなかった
きょう 歩く瞼(まぶた)の
片隅に
かすかに揺れるものがあって
その先を追っていったら
細い梢の先端が折れ
わずかな皮膚で
からくも繋(つな)がっていて
あるかなきかの風に揺れ
語尾の決まらぬままの
コトバのように
幼い木の芽が
ふるえていた
その木の芽の
ふるえを
ふるえだけを摘み取って
詩を書こうかと
考えてみた
理不尽な恐怖が
紙の上で
ひくひくふるえているような
そんな詩行を持つ
こころ貧しい時代の
詩を、
赤ん坊の
小指ほどの
ちいさな
「きょう 歩く瞼(まぶた)の/片隅に」。
この2行に驚かされる。「歩く瞼」。瞼が歩くわけがない。歩いているとき瞼の片隅に、というのが正確な(?)日本語だ。でも、それでは詩にならない。
小長谷の詩の特徴は、行から行へ、ことばがずるずるっとずれてゆくときの、不思議なずれの感じにある。
何か違う。普通はこんな風にいわない。でも、これくらいのずれならいいか、と思ってしまうような微妙なずれ。ずれているんだけれど、ずれない形もすぐに想像がつくという感じのずれ。それが巧みに読者を小長谷ワールドへ引き込んでゆく。
「片隅」「かすかに」「細い」「わずかな」「からくも」「あるかなきかの」――このしつこいまでの、細部へ細部へと誘うことば。それに「先」「梢」「先端」という目をこらさないとわからないものが追い討ちをかける。
ずるずると、しかしどこまでも微妙に。
そのことばに誘われるまま読んでしまう。
そして。
その木の芽の
ふるえを
ふるえだけを摘み取って
詩を書こうかと
考えてみた
この部分がとても美しい。「ふるえを/ふるえだけを」。この音楽の美しさに、私は参ってしまう。「意味」が問題なら、「ふるえ」の繰り返しは不必要だ。意味ではなく、小長谷は音楽を書きたいのだと思う。「書こうかと/考えてみた」のか行のゆらぎなど、なんでもないようだけれど、不思議に口が動いてしまう。舌が動き、のどが動く。
こういう楽しさを味わった後では、「赤ん坊」云々なんてどうでもいい。こう書くと小長谷に失礼になるだろうか。
「ふるえ」ということばが何やら象徴的に感じられるのだが、小長谷はことばの音楽のバイブレーションの繊細さを詩で確立したいと思っているのではないかと私は想像した。