詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代「45文字」

2007-04-03 21:01:23 | その他(音楽、小説etc)
 小池昌代「45文字」(「新潮」2007年04月号)。

 主人公がフェルメールの絵に45文字の「キャプション」をつけるシーン。

 書こうとして、絵を見つめる。その一瞬が、緒方は好きだ。言葉はまだ、どこにもない。緒方のなかにも、絵のなかにも。(略)緒方はいつも、絵のなかの物音に、耳を傾けているような気持ちになった。見るのでなく、絵を聴くのが、書くときの緒方の態度だったが、フェルメールの絵は静かだった。無機質な無音というのではなく、日常の、かすかな雑音が聞こえるようだった。

 フェルメールの絵を語っていて、おもしろいと思った。静かさを説明して「日常の、かすかな雑音が聞こえるようだった」というのは美しい。「詩」がここにある。小池の詩作品に共通するものがある。このことばが書きたくてこの小説を書いたのだと思った。
 ただし「無機質な無音というのではなく」という部分はフェルメールの静かさとは相いれない。書く必要がないことばだと思った。
 同じように、方々のことばがほんとうに必要なものなのかどうかわからない。
 もっとちがった形、フェルメールの絵にキャプションをつけるということに絞って書き込んだ方が小説としておもしろかったのではないかと思う。
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入沢康夫と「誤読」(メモ2)

2007-04-03 12:13:00 | 詩集
 「三保の鴎」の繰り返される「とも」がとても気にかかる。「とも」あるいは「も」こそが入沢の「誤読」を推進するキーワードであるという気がする。予感がする。(予感というのは変だが……。)
 最初の詩集『倖せ それとも不倖せ』には「それとも」が含まれている。どちらかであると断定しない。決定しない。別なものである可能性をいつも視野にいれておく。別な視点を常に用意しておく。そういう姿勢が入沢のことばを動かしているのではないだろうか。

 「EPISODE 24.NOV.1953」。「 数寄屋橋から ほうりこまれた男の唄」「 見ていた男の唄」という2章から成り立っている。ひとつのできごとをふたつの視点から見る。この構成のなかにすでに「も」が含まれている。世界をとらえる視線はいくつも存在し、そのそれぞれに「正解」はある。「正解」が複数なら、どれを選ぶかは個人の問題になる。そして「正解」が複数なら、そこに「誤読」が紛れ込むのは必然のようにも感じられる。また逆に世界をとらえる視線がいくつもあるなら、それぞれに「誤読」はあるかもしれないし、その「誤読」のなかには「正解」につながるものも含まれているかもしれない。

 「 数寄屋橋から ほうりこまれた男の唄」の書き出し。

手をはなすと
体がおれからはなれて 水面へにげてしまった
おれは今
ざりがにの如きものになってしまった
こうして泥のそこを あとずさりしていこう
案外
この水そこの泥の中でのほうが
娑婆でよりずっときれいに生きていけそうな気がする

 「手をはなすと/体がおれからはなれて 水面へにげてしまった」。これはもちろん「事実」ではなく、男の心象風景だ。だが「心象風景」のなかには必ず「事実」がある。「心象風景」が事実のすべてではないが、そこには「事実」が含まれている。
 「誤読」には必ず「誤読」を支える心象・真理が含まれており、心象・真理の「正解」を明確にいおうとして「誤読」した事実しか書けないということも起こりうる。

 客観的事実としての真実、心理的事実としての真実。そして、心理というのは物理的なものではないから、簡単に揺れ動いてしまうときがある。そのことが「誤読」をいっそう複雑にし、複雑になるにしたがって、どんどん明確にというか、譲れない「真実」となってゆくこともある。
 入沢は「誤読」のまわりを巡りながら、「誤読」の奥で透明になってゆく真実、心理的真実を追い続けているように思える。

 「ざりがにの如きものになってしまった」。「ざりがに」は比喩である。「ごとき」が「比喩」であることを証明している。「真実」はそれが「比喩」であるということだけだ。「比喩」であるということにしか「真実」は存在しないはずである。
 しかし、いったん「比喩」が動きだすと、その「比喩」のなかへとこころは動いてゆく。自分自身を「ざりがに」と「誤読」し、こころが動いてゆく。「ごとき」は瞬時に忘れ去られ、消えてしまう。
 「案外……気がする。」
 こころは、もう自分自身が「ざりがに」かどうかを忘れている。生きてゆけるかどうかだけを気にしている。「ざりがに」であることが前提ではあるけれど、こころは「きれいに生きて」いけるかどうかだけを気にしている。
 「誤読」しながら動いてゆくこころ--その動きのなかにこそ「真実」がある。

 「 見ていた男の唄」にも興味深い行がある。

理屈はどのようにでも つくだろう

 「客観的事実」。しかし、その客観的事実を支える心理的事実。心理的事実はどのようにでも説明できる。この行のなかにも「も」がある。理屈はどのようにで「も」つくだろう。
 「も」。「も」のつくりだす揺らぎ。揺らぎの中で確信を深めていくこころ。そこに「誤読」の真実がある。

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