小池昌代「45文字」(「新潮」2007年04月号)。
主人公がフェルメールの絵に45文字の「キャプション」をつけるシーン。
フェルメールの絵を語っていて、おもしろいと思った。静かさを説明して「日常の、かすかな雑音が聞こえるようだった」というのは美しい。「詩」がここにある。小池の詩作品に共通するものがある。このことばが書きたくてこの小説を書いたのだと思った。
ただし「無機質な無音というのではなく」という部分はフェルメールの静かさとは相いれない。書く必要がないことばだと思った。
同じように、方々のことばがほんとうに必要なものなのかどうかわからない。
もっとちがった形、フェルメールの絵にキャプションをつけるということに絞って書き込んだ方が小説としておもしろかったのではないかと思う。
主人公がフェルメールの絵に45文字の「キャプション」をつけるシーン。
書こうとして、絵を見つめる。その一瞬が、緒方は好きだ。言葉はまだ、どこにもない。緒方のなかにも、絵のなかにも。(略)緒方はいつも、絵のなかの物音に、耳を傾けているような気持ちになった。見るのでなく、絵を聴くのが、書くときの緒方の態度だったが、フェルメールの絵は静かだった。無機質な無音というのではなく、日常の、かすかな雑音が聞こえるようだった。
フェルメールの絵を語っていて、おもしろいと思った。静かさを説明して「日常の、かすかな雑音が聞こえるようだった」というのは美しい。「詩」がここにある。小池の詩作品に共通するものがある。このことばが書きたくてこの小説を書いたのだと思った。
ただし「無機質な無音というのではなく」という部分はフェルメールの静かさとは相いれない。書く必要がないことばだと思った。
同じように、方々のことばがほんとうに必要なものなのかどうかわからない。
もっとちがった形、フェルメールの絵にキャプションをつけるということに絞って書き込んだ方が小説としておもしろかったのではないかと思う。