詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「行方知れず」、小長谷清実「迷路の日」

2007-04-19 11:54:02 | 詩(雑誌・同人誌)
 松岡政則「行方知れず」、小長谷清実「迷路の日」(「交野が原」62、2007年05月01日発行)。
 詩のおわり方について考えさせられた。
 松岡政則「行方知れず」は2連からできている。その1連目。

あなたを
コンクリートの橋桁に圧しつけて
ハズカシイと言わせたい
ぼくは何も言わない
絶対に。
分かっている
言えば青空が台無しになる
五月の震えさえも逃がしてしまう
真昼の、剥き出しの現れに、
川つらの、目映い光にじっと耐える、
あなたにぼくは見えない
草の匂いだけがあなたの背後に広がる
ぼくは濡れた指先の無言からどろどろと溶けて
そのまま日向の行方知れずになりたい行方知れずになりたい

 最後の「そのまま日向の行方知れずになりたい行方知れずになりたい」がとてもいい。「行方知れずになりたい」が2度繰り返されているが、最初の「行方知れずになりたい」には「そのまま日向の」という修飾節があるのに、あとの方ではそれがない。こころが無駄なものを捨て去って収斂していく感じ、それが行の長さそのままにこころの底までおりてくる感じがとてもいい。
 前半の5行が「絶対に」に向かってどんどんことばが短くなるのに、それ以後は「行方知れずになりたい」まで徐々にことばが増えてくる。そのリズムと「真昼の、剥き出しの現れに、」という未消化のことば、さらに「川つらの、目映い光にじっと耐える、/あなたにぼくは見えない」の行の渡りが、「行方知れずになりたい」という理不尽な欲望(不安?)を揺さぶる感じがとてもいい。
 詩はここで終わればいいのに、と私は思うが、松岡はこのあと2連目として5行のことばを書いている。その5行は、私の印象にすぎないのかもしれないが、とてもつまらない。がっかりする。だから、ここではその5行を省略したまま、この詩の感想を終えておく。



 小長谷清実「迷路の日」の作品は松岡の詩と対照的だ。小長谷のことばには独特のリズムがあって私はとても好きだ。
 この作品にもなかほどに「あれやこれやの中からか」という美しい行がある。末尾の「か」へ向かって揺れる揺らぎにうっとりしてしまう。口がというか、のどがというか、口蓋がというか、ようするに声を発するための肉体がくすぐられる。声に出して読みたいという欲望に揺り動かされる。私は詩を声に出して読むことはしないが、その黙読のあいだも、肉体が揺り動かされる。
 もしこの行が「あれやこれやの中から」だったら、肉体はそれほど刺激されない。単に意味の上を意識が動いていくにすぎない。「か」が付け加えられているために肉体が動き、その肉体の動きが意味をどこかへ押し流し、その感じが、また「ああ、これが詩なのだ」と感じさせてくれる。
 この「か」に小長谷のことばの特徴があらわれていると私は感じている。断定ではなく、意識を中途半端にしておいて、ただリズムを感じさせ、リズムのなかで何かを発見させようとする詩--そういう作品として、私はいつも小長谷の作品を読んでいる。楽しんでいる。
 しかし、この作品に関して言えば、実は私は、「あれやこれやの中からか」という行には感心したが、それ以外は、かなり窮屈な感じがして好きではない。特に2連から構成されているこの作品の1連目が、とても窮屈に感じる。なんだかつまらないなあ、とさえ感じる。
 ところが、2連目で印象が一気に変わる。

し しっ し し し と
私は応答する
しているらしい 限りなく今も

 「私は応答する/しているらしい」が不思議な美しさに満ちている。1連目は私には「詩」とは感じられなかったけれど、2連目で突然それが「詩」に変わったという感じだ。この作品の終わり方がとてもいい。小長谷にしかできないものだと思う。
 「応答する」と断定しておいて、すぐに「しているらしい」とはぐらかす。「しているらしい」と「応答」が省略されているのも、不思議なあじわいがある。省略することで逆に「しているらしい」ことの動作がくっきりする。しかも意識としてくっきりするのではなく、こころのなかであいまいなまま(?)くっきりする。「応答」が手触りというか、何か肉体の動きそのもののように感じられる。
 「あれやこれやの中からか」にも肉体を感じるが、「しているらしい」にも私は肉体を感じる。たしかに、そこに存在している「もの」があると感じる。

 「限りなく今も」というくらいなら「応答している」のか「していないのか」、「らいし」ということばを省略した形で言えそうな気もするかもしれないが、そういうことは錯覚で、どんなに「限りなく今も」、そう感じるしかないことというのはあるのだ。そして、そういう感覚こそ「迷路」というものだろう。「らしい」の限りない繰り返しが迷路の肉体となるのだ。

 この2連目の3行のあと、小長谷には書くことがあったか、なかったか。たぶんあったと思う。もしかすると知らず知らずに書いてしまったかもしれない。小長谷は、何語か、あるいは何行か書いて、それからそのことばを消したかもしれない。
 この詩は「終わっている」というより「中断している」。そして、その「中断」が、この作品を「詩」にしているのだと思う。
 「あれやこれやの中からか」も「か」によって「中断」している。「中から」で終われば断定だが、「か」を追加することで、その「断定」から一歩退く。小長谷の「中断」は突然終わるのではなく、一歩(あるいは意識できないくらいの半歩)引き下がることにある。そして、その引き下がりのなかに「詩」がある。引き下がるのは、後ろへではなく、小長谷の肉体の内部へ、つまりこころへ引き下がるのだから。引き下がることによって「こころ」が(それをこころと呼んでいいものだとすれば、ということだが)、手触りのあるものとしてあらわれてくる。

コメント
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