詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ1)

2007-04-01 14:18:07 | 詩集
 『入沢康夫〈詩〉集成 上巻』(青土社、1996年12月30日発行)。
 入沢康夫の詩は「誤読」から始まる。現実をゆがめて見てしまう。現実をゆがんだ形でことばにしてしまう。そこから「詩」が始まる。

三保の鴎
  序詩に代へて

虚空にひらりひらりと
 舞ふものがあつて
それが千年もの昔の
春の女神の いたいけな
 笑(ゑ)まひとも
また 見るはしから忘れ去られていく
 夢の 傷口かとも思はれる

つながつてゐるのだ
どこかで--

あの
青い雲と雲とが
 せはしく行き交ふあたりで--

 鴎が舞っている。これが現実であり、事実だ。「虚空」に舞っている、というのは「誤読」だ。
 「虚空」は「何もない空間。空中。大空。」(岩波国語辞典)
 入沢は、大空、空中を「虚空」と呼ぶ。そこに最初の「誤読」がある。「思い入れ」がある。「思い入れ」が大空を、空中を「虚空」とゆがめている。
 たとえば幼稚園の子ども。大空を鴎が舞っている、ならわかる。「虚空」を舞っている、ではわからない。
 小学生。大空を鴎が舞っている。空中を舞っている、ならわかる。「虚空」を舞っている、ではわからない。
 「虚空」には幼稚園の子どもや小学生にはわからない何かが付け加えられている。その付加されたものが「誤読」だ。
 
 何が付け加えられているか。「虚」。「虚」が「誤読」だ。「何もない」ということが「誤読」だ。
 「何もない」のではなく、「何もない」と思い込みたいのだ。

 「誤読」は「誤読」ゆえに乱れる。まっすぐには進まない。
 「笑まひとも」「傷口かとも」「思はれる」。
 鴎は笑みでもなければ傷口でもない。しかし、入沢には、そのどちら「とも」思える。笑みなら笑み、傷口なら傷口に思えるというだけなら、笑みや傷口は「比喩」だが、その両方のどちらとも思えるというのでは「比喩」ですらない。
 「何もない」と「誤読」したから、そのあとも「何もない」。笑みも傷口もたしかなものではなく、「何もない」に等しい。
 「虚空」の「虚」は「虚しい」の「虚」。
 入沢は現実を見失っている。
 見失っているがゆえに、見失っていない、と主張する。「誤読」を重ねる。

 「つながつてゐる」。
 何と何が?
 鴎と笑みが? 鴎と傷口が? それとも笑みと傷口が? あるいは鴎を笑みと見る入沢が何かと? 鴎を傷口と見る入沢が何かと?
 わからない。
 わからないのに、入沢はわかっていると思っている。これが「誤読」だ。
 入沢にはわかってるかもしれない。しかし、それを語ることができない。ほんとうに語ることがあるとすれば、そのわかっていることなのに、それを明確に語ることができない。あいまいな、何がなんだかわからないものとしてことばにするしかない。ことば以前のもの、「詩」にするしかない。

 「誤読」というのは、他人には何のことかわからない。本人にだけは、明確な事実として認識されている事柄である。
 「それ、違っているよ」と指摘しても、必ず「え、どうして? だって、これこれでしょう」と返ってくる。「誤読」はそういうものだ。

 「誤読」にこそ「詩」がある。
 たしかな実感なのに、それを伝えることばがない。ことば以前のことばがうごめき、事実をねじまげて不可解にする。事実を不可解にしてしまう力こそが「詩」であり、その不可解さを選択するところに詩人の思想があらわれる。
コメント
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