近岡礼『入江にて』(思潮社、2007年02月28日発行)。
海を描いている。1か所、正確には2行だけは非常に魅力的なことばがある。「私の座る席」の最後。
海は暗い。「私の闇」よりはるかに暗い。何も見えない。見えるのは、ガラス窓に映った「私の貌」(かお、と読ませるのだと思う)だけである。そんなふうに自分自身を見つめる近岡と海の関係--それだけが、私にはとても近しいものに感じられた。
この2行には、打ち寄せては引き、そしてうねる冷たい水の動きと輝きがある。他の行と比べるとその違いが歴然としている。
これは1連目であるが、どこの海なのだろう。
一日のおわり、自分自身の部屋にもどり椅子に座る。窓から海が見えるのだろう。「隅で」というのはそうした状況を指しているだろう。
「無碍」とはどういう状態を指していっているのだろうか。自在に荒れ狂った状態だろうか。ゆったりと平らかな状態だろうか。「波が岩を洗う」なら荒れた海だ。「ひたひた」ということばを引き受けるなら平らかな海だ。こんな相反する状態の海がどこにあるのだろうか。「叙情も 悲劇も/海辺の明かりも/遠慮なく見える」というより、遠慮なく「見ている」のではないのか。
ここには海はもう存在しない。「断崖」がかろうじて海とつながっているが、どこの断崖のことなのだろう。近岡の座っている席からほんとうに断崖が見えるんだろうか。そこに舞っている雪が見えるほど近くに断崖があるのだろうか。そうであるなら、もっとていねいな描き方があっていいような気がする。見えもしない「風景」を空想で描いているように感じられて仕方がない。
さらに「健全な党派が追い越して行く」とはいったいどういうことだろうか。(川上明日夫は「しおり」でこの作品を引用するにあたって、なぜか2連目の最後の2行、「健全な党派……」をふくむ行を省略している。)
近岡は海とは向き合わず、ことばと向き合っている。自分自身のことばではなく、他人が書いたことばと向き合っている。
だからこそ、3連目は「死語の群」ということばで始まる。
しかし、こうなると「海」はもう実在の海ではなく、意識の海である。
私は最後の2行に氷見の海を感じたが、それは実在の海ではなく、近岡の意識の海である。近岡が、意識になるまでに海を自分のものにしているというとらえ方もあると思うが、どうも違う。
近岡が自然の海ではなく意識の海を描いているというのなら、1連目、2連目はもっと「意識性を明確にしないといけない。どう読んでも、頭で書いただけの海だ。「頭で書いた」から「意識の海」ということなのかもしれないが、そうした言い方は「詭弁」の類だろう。
近岡は海にはそれほど関心がないのではないだろうか。「私は何者か」という2連目の行が象徴的だが、近岡の関心は「私は何者か」ということにしかないように感じられる。この作品の最後の2行が印象的なのは、その「私」に「かお」があるからだ。肉体があるからだ。その肉体が、貌という気取った書き方ではなく、もっと誰でもがわかる「顔」ならもっとよかっただろうと思う。
最後の2行が魅力的になっているのは、「意識」ではなく「肉体」を描いたからだ思う。肉体は意識とは違って不透明である。簡単にことばにならない。ことばは行きつ戻りつし、また迂回もする。そういう動きが「海」そのものを感じさせる。肉体は海とつながるものを自然にもっているけれど、「意識」(頭)は、そういううねりをもっていそうで、もっていない。単純に動きすぎる。もっと肉体を描いたものを読みたいと思った。
海を描いている。1か所、正確には2行だけは非常に魅力的なことばがある。「私の座る席」の最後。
灯台が消えて象徴だけが残るように
私の闇より濃いのか 海を消して私の貌が窓ガラスに映っている
海は暗い。「私の闇」よりはるかに暗い。何も見えない。見えるのは、ガラス窓に映った「私の貌」(かお、と読ませるのだと思う)だけである。そんなふうに自分自身を見つめる近岡と海の関係--それだけが、私にはとても近しいものに感じられた。
この2行には、打ち寄せては引き、そしてうねる冷たい水の動きと輝きがある。他の行と比べるとその違いが歴然としている。
座る席はここ
隅で 無碍の海が広がる
波が岩を洗う
全てはひたひたと顕れる
叙情も 悲劇も
海辺の明かりも
遠慮なく見える
これは1連目であるが、どこの海なのだろう。
一日のおわり、自分自身の部屋にもどり椅子に座る。窓から海が見えるのだろう。「隅で」というのはそうした状況を指しているだろう。
「無碍」とはどういう状態を指していっているのだろうか。自在に荒れ狂った状態だろうか。ゆったりと平らかな状態だろうか。「波が岩を洗う」なら荒れた海だ。「ひたひた」ということばを引き受けるなら平らかな海だ。こんな相反する状態の海がどこにあるのだろうか。「叙情も 悲劇も/海辺の明かりも/遠慮なく見える」というより、遠慮なく「見ている」のではないのか。
でも無言の時がもっと良かった
断崖に雪が憩っている
来るのはいつも一日の終わり
戸張が眼を瞑らせる
私は何者か
饒舌になりたいのだけれど
私の声に先んじて
健全な党派が追い越して行く
ここには海はもう存在しない。「断崖」がかろうじて海とつながっているが、どこの断崖のことなのだろう。近岡の座っている席からほんとうに断崖が見えるんだろうか。そこに舞っている雪が見えるほど近くに断崖があるのだろうか。そうであるなら、もっとていねいな描き方があっていいような気がする。見えもしない「風景」を空想で描いているように感じられて仕方がない。
さらに「健全な党派が追い越して行く」とはいったいどういうことだろうか。(川上明日夫は「しおり」でこの作品を引用するにあたって、なぜか2連目の最後の2行、「健全な党派……」をふくむ行を省略している。)
近岡は海とは向き合わず、ことばと向き合っている。自分自身のことばではなく、他人が書いたことばと向き合っている。
だからこそ、3連目は「死語の群」ということばで始まる。
死語の群よ
漆黒の隙間からせめて呼吸の一切れを吐け
緑であるか赤であるか
灯台が消えて象徴だけが残るように
私の闇より濃いのか 海を消して私の貌が窓ガラスに映っている
しかし、こうなると「海」はもう実在の海ではなく、意識の海である。
私は最後の2行に氷見の海を感じたが、それは実在の海ではなく、近岡の意識の海である。近岡が、意識になるまでに海を自分のものにしているというとらえ方もあると思うが、どうも違う。
近岡が自然の海ではなく意識の海を描いているというのなら、1連目、2連目はもっと「意識性を明確にしないといけない。どう読んでも、頭で書いただけの海だ。「頭で書いた」から「意識の海」ということなのかもしれないが、そうした言い方は「詭弁」の類だろう。
近岡は海にはそれほど関心がないのではないだろうか。「私は何者か」という2連目の行が象徴的だが、近岡の関心は「私は何者か」ということにしかないように感じられる。この作品の最後の2行が印象的なのは、その「私」に「かお」があるからだ。肉体があるからだ。その肉体が、貌という気取った書き方ではなく、もっと誰でもがわかる「顔」ならもっとよかっただろうと思う。
最後の2行が魅力的になっているのは、「意識」ではなく「肉体」を描いたからだ思う。肉体は意識とは違って不透明である。簡単にことばにならない。ことばは行きつ戻りつし、また迂回もする。そういう動きが「海」そのものを感じさせる。肉体は海とつながるものを自然にもっているけれど、「意識」(頭)は、そういううねりをもっていそうで、もっていない。単純に動きすぎる。もっと肉体を描いたものを読みたいと思った。