詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

利岡正人「全焼」、坂多瑩子「台所」

2007-04-09 23:07:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 利岡正人「全焼」、坂多瑩子「台所」(「鰐組」221 、2007年04月01日発行)。
 利岡正人「全焼」は、放火魔(?)というか、火の方からみつめた夜の風景。

夜が更けるのを待っている
こうして人目につかぬ路地裏に介在して
隣家からかすかに漏れる声や窓の明かり
それらが途絶えるのを壁越しにただ待っている

 いいなあ。家を焼きたくてチャンスを待っている火の気持ち。冷静に周囲を見回している。その冷静さを反映した文体。
 どこにでも文体はある。文体があれば、そこに「詩」がある。それまでことばにならなかったことばが動きはじめる力がある。
 実際に火が燃え上がっても、この文体の冷静さには変化がない。それがまたとてもいい。

寝静まった町を叩き起こしてしまって申し訳ないが
当の町全体に匿われていたあなたに伝えたい
これ以上は燃え上がることはない

 まるで家が放火され、それが全焼するのを唖然としてみつめるように、ただただ利岡の文体をみつめてしまった。



 坂多瑩子「台所」。いつも引き込まれてしまう。後半部分。

誰が誰の母親で
誰の誰が母親か
ぬれぞうきんの下や
クレンザーの箱のうしろでは
何かのたまごが
孵化しかけています
たまごの中で
胎児の私がごはんを作っていました
お母さん
夕飯できました

 「台所」は母から娘へ、そして娘が母になってさらに娘へと引き継がれていく--というのは、面倒くさいことをいいはじめるときりがない。かならず「差別」の問題が顔をのぞかせる。「制度」の問題が浮き上がってくる。
 面倒なことを坂多は

誰が誰の母親で
誰の誰が母親か

という2行で、いっきにかきまぜ、無視してしまう。無視してしまうというと誤解を呼んでしまうかもしれないが、「母から娘へ、そして娘が母になってさらに娘へ」という「伝説」の奥にあるものを、「差別」や「制度」とは無縁ないのちのありようを、奇妙な形でつかみとってしまう。
 「誰が誰の母親で」は、たとえば「おばあちゃんはお母さんの母親で」と言い換えることができる。ここから継承される制度、差別の問題がはじまる。
 ところが「誰の誰が母親か」は? 言い換えようとするとうまく言い換えることができない。「私のおかあさんがおばあちゃんの母親か」と思わず私は錯乱してしまう。そして、それを真実だと思ってしまう。
 この錯乱させる文体が坂多のことばの不思議なところである。
 坂多は「私のおかあさんがおばあちゃんの母親で」というようなことは少しも書いていないのだが、台所での仕事というのは世代をどこかでひっくりかえしてしまうところがある。「たまねぎを切ったり/湯をわかしたりする」、料理をするというのは、母親の「仕事」のひとつであるけれど、その仕事をすることが「母親」である証拠ならば、「おかあさんがおばあちゃんの母親」という関係もありうる。そして、実際に、そういう「入れ替わり」は女性たちのあいだで繰り返されている。女性だけではなく、人間のすべてのあいだで形をかえて繰り返されている。年上、年下、強者、弱者は関係なく、年下であろうが、弱者であろうが、その人が年上、強者のために何かをするとき、その人こそが「保護者」なのである。
 たとえば坂多がごはんを作ることで母親の母親になってしまうということは日常茶飯事のことである。子どもが料理を母親のために作ることをとおして、母親の母親になってしまうというのは、「論理」的にはおかしいけれど、現実としては何もおかしいことがない、というか、それがおかしいかどうかの判断を無視して、そういうことがおこなわれている。このひっくりええりを、私たちは、感謝しながら受け入れている。ひっくりかえすことが生きること、責任を引き受けることであるとさえ信じている。

 そういうおかしなことをおかしなまま、坂多はことばにすることができる。

何かのたまごが
孵化しかけています

 おかしなこと、おかしいけれど日常的なこと、母親と娘がいつのまにか入れ代わってしまうという「事実」の「たまご」が孵化しかけているのである。「たまご」はありふれた(?)というべきなのかどうかよくわからないけれど、坂多が直面している「事実」の比喩である。
 「女性詩」とか「台所詩」というと、女性に一定の役割をおしつける「差別的」な印象があるが、坂多の「台所詩」はそうした差別的な視点を吹き飛ばしてしまう。「制度としての女性」あるいは「制度としての台所」ではなく、時間そのものをひっくりかえしてしまう何かを秘めている。時間をひっくりかえすということは、歴史を、つまりは制度をひっくりかえすことである。

 坂多は何かことばにならない不思議なものをつかんでいる。「たまご」をつかんでいる。「たまご」という比喩でしか語れない何かを、あたためている。


コメント
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