詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

駱英『都市流浪集』

2007-10-03 09:37:50 | 詩集
 駱英都市流浪集』(竹内新・編訳)(思潮社、2007年08月20日)
 「都市」とはいったい何か。これは「故郷」とはいったい何かという問いと一体のものだろうか。
 先日、岡本勝人の『都市の詩学』(思潮社)を読んだばかりなので、二人の「都市」、二人の「故郷」がまったく違った形で見えてきて、そのことに私はまず驚かされた。
 駱英の「都市を流浪する」の書き出し。

朝だ
私の流浪が始まろうとしている
陽はそわそわ落ち着かない
私はコンクリートのすき間にいる虫のことが心配だ
今日の強烈な陽射しにどう向き合うというのだ
またくる夜にはたおやかな鳴き声を失っているだろう
私の流浪はきっと都市の中で方角を見失うだろう
街角の小さな草よ おまえは枯れて黄色くなり
思い足取りがおまえの背骨を踏みしだく
長い夜にさらされたおまえの眠りにすがすがしい香りはない

 駱英の「故郷」は「虫」であり、「草」である。岡本勝人の「故郷」は「棚田」であり「木蓮」であった(「歌と仕事」)。この違いはとても大きい。駱英の「虫」に名前はない。「草」に名前はない。そこには「文化」がない--というと大げさだが、人間と自然とのかかわりが「文化」になっていない。野蛮のままである。
 一方、岡田は「棚田」を風景としてもち、木蓮を風景としてもつ。「棚田」は農民がつくりあげた「文化」である。そこには人間の手がくわわっている。人間の手がくわわることで美しさをもっている。「木蓮」も「花」ではなく、他の花と区別され「木蓮」という名前をもつことで人間の生活に密着している。「木蓮」の花が咲いたとき、ひとはたとえば田を耕し水を張る。農民の暮らしは、そういう整然とした規則をもっている。「文化」をもっている。
 駱英の「故郷」にももちろん「文化」はあるだろうけれど、駱英はそうした暮らし、「文化」以前のものを、彼自身の「故郷」としている。名もない「虫」、名もない「草」を「故郷」としている。無防備ないのち、人間の手を借りずに自然のなかにただ存在するもの、野蛮(これはいい意味で書いているのだが)の生々しいいのちが、駱英にとっての「故郷」なのである。
 駱英にとって「野蛮」が「故郷」であるということは、彼自身のいのちもまた「野蛮」を出発点としている、ということである。
 岡本は「故郷」の整然とした「文化」をかかえて「都市」(の文化)と向き合い、その「文化」の差異の中で繊細にゆらぎ、郷愁の声を歌にする。
 駱英は違う。駱英のなかにある「野蛮」の血が、「故郷」の「文化」というクッションをへずに、いきなり「都市」の「文化」とぶつかる。それは、駱英の「野蛮」と「都市」の「野蛮」がぶつかりあうという形をとる。「都市を流浪する」の書き出しだけでもそのことがわかる。
 都市の野蛮は小さな虫のいのちをけちらす。虫のために草むらさえ用意しない。土さえも用意せず、残酷な太陽のなかに虫をさらけだすだけではなく、コンクリートの照り返しで虫を苦しめる。この虫を、たとえば何ももたず(金も持たず)、無防備なまま「故郷」からでてきたひとりの人間に置き換えてみると、「都市の野蛮」がくっきりするだろう。「都市」は金も職ももたない人間を拒絶し、路頭にほうりだす。そしてその人間を無慈悲な太陽はただあぶるだけである。
 草も同じである。やっと生き長らえることのできる「土」の破片にしがみついても、そこを通りすぎる人間に踏みしだかれるだけである。
 都市には野蛮が満ちており、それは無防備ないのちに対して容赦がない。どこまでもどこまでも残酷である。この残酷さを、駱英は、どんなふうにして自分自身のなかに取り込んでゆけるのか。都市の残酷な野蛮と戦い、それに打ち勝ち、彼自身なのかの野蛮を、その輝きを解放できるのか。
 詩は、たぶん詩のことばは、駱英の美しい野蛮を守り、また都市の野蛮をかみ砕き、消化するための唯一の方法かもしれない。どのことばも、ひどく生々しい。どのことばも、それぞれに鮮烈な血を噴き上げている。その血のあたたかさ、まがまがしさ。まがまがしい美しさ。その恍惚。比類がない。
 詩、でしかありえないことば。詩になるしかない、ことば、ことば。

 都市の野蛮に傷つき、血を流す虫や草に駱英自身を重ね合わせたあと、駱英は遠い遠い「故郷」を夢みる。その最後の1行が、またとてつもなく美しい。

ふるさとよ おまえの小川は今も私のために流れている

 この川は、たしかに小川なのだ。そしてそれは何の手入れもされていない川だ。降った雨が山の草木を、その枯れ葉の下をくぐり、地中をもぐり、しずかに地表にでてきた一滴一滴がただ低い方へ低い方へと自然に集まってできた小川。自然ないのち。水のいのち。駱英の「故郷」では水さえもいのちをもち、流れているのだ。それはどんなに離れていても、お駱英のこころのなかへと流れてくる。駱英のこころはいつでもその小川のほとりにある。そこでは草があり、虫が鳴いているのだ。駱英はたとえばその草むらで虫をけちらしたかもしれない。草を踏んだかもしれない。しかし、それは虫や草にとってはなんでもないこと、自然のありうるできごとのひとつにすぎず、あるいはより強く生きていくための試練のようなもの、よりたくましい「野蛮」を身につけるためのできごとにすぎないだろう。
 駱英の野蛮は、そうした虫や草の野蛮と同じように、自然そのものを呼吸している。そういう野蛮がみた「都市」を駱英は描いている。野蛮のみた抒情が、この詩集にはつまっている。


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