駱英『都市流浪集』(竹内新・編訳)(思潮社、2007年08月20日)
「橋」という作品がある。その書き出し。
「橋は高層ビルに似てもう動かせない」。このことばに私はびっくりしてしまった。
わざわざ「動かせない」と書いているのは、駱英の「故郷」の橋は動かせるということだろう。「故郷」の橋は動かせるのに、「都市」の橋は動かせない。これはもちろん物理的な意味ではなく、精神的な意味だろう。
こういうことは、実は、私はわかりたくない。それなのに、なぜかわかってしまった。不自然な行ではなく、その通りだと思うこころが私にあって、そのこころがこの行と共鳴しているのを感じ、驚いてしまった。
「故郷」の橋は「都市」の橋とは違って動かせるのだ。動くのだ。そうとらえる駱英のこころが、実は私にはわかってしまったのだ。--もちろん私のわかったは「誤解」であり、私が単純に思い込んでいるだけのことではあるのだが。
その前の「呼び声は藍色に変わってしまった」も同じである。
「藍色」。このことばで駱英が何を伝えたかったのかわからないが、その藍色が、実は私には見えたのである。というと奇妙だけれど、もし恋人を呼ぶ声があり、そしてその声が届かないものであるなら、私もその声の色は藍色以外にないと思うのである。迫ってくる暗闇のなか、「都市」の雑踏のなかで、それは短く、のどから出ると、口のその先で、ふっと止まってしまうのである。青ならもう少し、水色ならさらにもう少し先まで進むかもしれないが、藍色は肉体のすぐ前でとまり、そこで哀しみに変わるのである。
「故郷」ではそうではないのだ。
「故郷」では、橋はまず夕陽の中を伸びてはゆかない。むしろ縮む。縮んでなくなる。(動かせる、とは、そういう意味である。)恋人が去ってゆくとしても、追いかけたい気持ちがあれば橋は縮む。橋など消える。ただ追いかければいい。誰も邪魔などしない。恋人がくっついたり離れたりするのは、単なる繰り返しであり、取り返しのつかないことではない。いつでも「動かせる」何かなのである。
ところが「都市」ではそんな具合にいかない。人間のもっている「野蛮」の美しさは受け入れられない。(「野蛮」は「野生」、あるいは「自然」と言い換えた方がたぶんわかりやすいのかもしれないけれど、私は「野蛮」にこだわりたい。)「故郷」では恋人を呼ぶ叫び声を聞くのは、人間のことなどまったく気にかけていない草や木や、長い道、そして小さな橋だけである。そういう状況のなかでは人間は「野蛮」になれる。ところが「都市」では、人の声を聞くのは草や木や、もちろん橋でもなく、人間なのだ。橋にもビルにも複数の、いや無数の人間の耳があり、それが駱英を「野蛮」のままで配させてくれないのである。
私の感じていることは「誤解」かもしれない。たぶん、誤解なのだろうと信じたいけれど、その誤解としか言えない何かを私は感じてしまった。
それは別なことばで言えば、駱英のことばに触発されて、私の「故郷」が目を覚ましたのだということかもしれない。
「故郷」とは何か。「野蛮」とは何か。たとえば「生き存える」の書き出しの2行。
この「繰り返し」、しかも一回ではなく「繰り返し繰り返し」という反復の時間が「故郷」なのである。「都市」は「繰り返し」を許さない。「繰り返し」は無駄である。いかに反復を少なくし、前進をつづけるかが「都市」の命題であるのに対し、「故郷」はいかに「繰り返し繰り返し」を繰り返しながら前進しないか、そこにとどまりつづけるかが命題である。「繰り返し繰り返し」「野蛮」は蕩尽する。そこにひとつ至福がある。そしてその至福は、「都市」では、少なくとも公的な場ではありえない至福である。(まったく私的な個室でなら蕩尽はありうるだろうとは思う。--バタイユの世界のように。バタイユの「野蛮」は「都市の野蛮」である。「都市を生きる人間の野蛮」である。)
「都市」では、駱英は傷つき、傷つくことで回復する。自らを「繰り返し繰り返し」という時間におくことで、自己を回復するように見える。
同じ「生き存える」のなかの2行。
「薔薇」と「ホソバグミ」は違う植物だから、その「花びら」の匂いが同じということはありえない。しかし、そのことを駱英は嘆いている。橋を動かせないのと同じように嘆いている。「故郷」では橋が動かせるように、それも縮む形で動かせるように、「故郷」ではあらゆる花びらがあらゆる花のにおいを共有するのだ。溶け合っているのだ。それは季節がくれば「繰り返し繰り返し」咲き乱れるという「野蛮の蕩尽」があらゆる花のなかに、花のいのちのなかにあるからだ。
それを思いだすたび、駱英は傷つく。同時に蘇る。そうした「野蛮の蕩尽」を思い出せるかぎりにおいて、まだ駱英は「野蛮の蕩尽」を生きることができるからである。駱英の「故郷」は「都市」のなかで、まだ生き存えているのだ。
これはちょっとうれしい。かなりうれしい。いいことばを読んだ、という気持ちになる。思いがけない詩集に出会って、私はびっくりしている。びっくりしたまま、私のことばは、好き勝手に動いている。--たぶん、私の感想は、誰とも共有できないものかもしれない。それでも書かずにはいられない。
「橋」という作品がある。その書き出し。
橋は
夕陽の中をゆったりと伸びていった
わが恋人の姿はもう地の果てに消えてしまった
呼び声は藍色に変わってしまった
それから橋は高層ビルに似てもう動かせない
「橋は高層ビルに似てもう動かせない」。このことばに私はびっくりしてしまった。
わざわざ「動かせない」と書いているのは、駱英の「故郷」の橋は動かせるということだろう。「故郷」の橋は動かせるのに、「都市」の橋は動かせない。これはもちろん物理的な意味ではなく、精神的な意味だろう。
こういうことは、実は、私はわかりたくない。それなのに、なぜかわかってしまった。不自然な行ではなく、その通りだと思うこころが私にあって、そのこころがこの行と共鳴しているのを感じ、驚いてしまった。
「故郷」の橋は「都市」の橋とは違って動かせるのだ。動くのだ。そうとらえる駱英のこころが、実は私にはわかってしまったのだ。--もちろん私のわかったは「誤解」であり、私が単純に思い込んでいるだけのことではあるのだが。
その前の「呼び声は藍色に変わってしまった」も同じである。
「藍色」。このことばで駱英が何を伝えたかったのかわからないが、その藍色が、実は私には見えたのである。というと奇妙だけれど、もし恋人を呼ぶ声があり、そしてその声が届かないものであるなら、私もその声の色は藍色以外にないと思うのである。迫ってくる暗闇のなか、「都市」の雑踏のなかで、それは短く、のどから出ると、口のその先で、ふっと止まってしまうのである。青ならもう少し、水色ならさらにもう少し先まで進むかもしれないが、藍色は肉体のすぐ前でとまり、そこで哀しみに変わるのである。
「故郷」ではそうではないのだ。
「故郷」では、橋はまず夕陽の中を伸びてはゆかない。むしろ縮む。縮んでなくなる。(動かせる、とは、そういう意味である。)恋人が去ってゆくとしても、追いかけたい気持ちがあれば橋は縮む。橋など消える。ただ追いかければいい。誰も邪魔などしない。恋人がくっついたり離れたりするのは、単なる繰り返しであり、取り返しのつかないことではない。いつでも「動かせる」何かなのである。
ところが「都市」ではそんな具合にいかない。人間のもっている「野蛮」の美しさは受け入れられない。(「野蛮」は「野生」、あるいは「自然」と言い換えた方がたぶんわかりやすいのかもしれないけれど、私は「野蛮」にこだわりたい。)「故郷」では恋人を呼ぶ叫び声を聞くのは、人間のことなどまったく気にかけていない草や木や、長い道、そして小さな橋だけである。そういう状況のなかでは人間は「野蛮」になれる。ところが「都市」では、人の声を聞くのは草や木や、もちろん橋でもなく、人間なのだ。橋にもビルにも複数の、いや無数の人間の耳があり、それが駱英を「野蛮」のままで配させてくれないのである。
私の感じていることは「誤解」かもしれない。たぶん、誤解なのだろうと信じたいけれど、その誤解としか言えない何かを私は感じてしまった。
それは別なことばで言えば、駱英のことばに触発されて、私の「故郷」が目を覚ましたのだということかもしれない。
「故郷」とは何か。「野蛮」とは何か。たとえば「生き存える」の書き出しの2行。
酒場のホールに生き存え
繰り返し繰り返し装いを脱ぎ捨てる
この「繰り返し」、しかも一回ではなく「繰り返し繰り返し」という反復の時間が「故郷」なのである。「都市」は「繰り返し」を許さない。「繰り返し」は無駄である。いかに反復を少なくし、前進をつづけるかが「都市」の命題であるのに対し、「故郷」はいかに「繰り返し繰り返し」を繰り返しながら前進しないか、そこにとどまりつづけるかが命題である。「繰り返し繰り返し」「野蛮」は蕩尽する。そこにひとつ至福がある。そしてその至福は、「都市」では、少なくとも公的な場ではありえない至福である。(まったく私的な個室でなら蕩尽はありうるだろうとは思う。--バタイユの世界のように。バタイユの「野蛮」は「都市の野蛮」である。「都市を生きる人間の野蛮」である。)
「都市」では、駱英は傷つき、傷つくことで回復する。自らを「繰り返し繰り返し」という時間におくことで、自己を回復するように見える。
同じ「生き存える」のなかの2行。
庭の薔薇は今ちょうど一面に赤く咲いているというのに
どの花びらに我が故郷のホソバグミの花の香りがあるというのだろう
「薔薇」と「ホソバグミ」は違う植物だから、その「花びら」の匂いが同じということはありえない。しかし、そのことを駱英は嘆いている。橋を動かせないのと同じように嘆いている。「故郷」では橋が動かせるように、それも縮む形で動かせるように、「故郷」ではあらゆる花びらがあらゆる花のにおいを共有するのだ。溶け合っているのだ。それは季節がくれば「繰り返し繰り返し」咲き乱れるという「野蛮の蕩尽」があらゆる花のなかに、花のいのちのなかにあるからだ。
それを思いだすたび、駱英は傷つく。同時に蘇る。そうした「野蛮の蕩尽」を思い出せるかぎりにおいて、まだ駱英は「野蛮の蕩尽」を生きることができるからである。駱英の「故郷」は「都市」のなかで、まだ生き存えているのだ。
これはちょっとうれしい。かなりうれしい。いいことばを読んだ、という気持ちになる。思いがけない詩集に出会って、私はびっくりしている。びっくりしたまま、私のことばは、好き勝手に動いている。--たぶん、私の感想は、誰とも共有できないものかもしれない。それでも書かずにはいられない。