藤維夫「島まで」(「SEED」13、2007年09月30日発行)
書き出しの2行が強烈である。
真夏の、真っ白な光。真っ白を通り越した透明な光。太陽は真上にあり、空中の不純物をすべて燃焼させてしまって、空中には「純粋」しか残っていない。「とどまれよ」という声は時間そのものを止めてしまう。「高く」ということばに誘われて、太陽はどこまでもどこまでも高くのぼる。照らせない地上がないくらいに高く高く、どこまでも高くのぼっていく。その垂直の上昇。
そこから「断崖下」という垂直の落下。ここには、激しい「対立」の衝突がある。存在は、あらゆる存在はみな互いに反対方向へ動き、衝突し、燃え上がる光になる。
海はどこまでも青く、「思うままに」波は暴れる。激しい自己主張。その衝突。
空気の透明さ、光の白さに歯向かうように、波が白く飛散する。
めまいがしそうなくらい強烈な光だ。
ここから、ことばはどんなふうに動いてゆくことができるだろうか。藤自身も、2行の強烈さにとまどってしまっているようだ。自分で書いたというより、夏の強烈な光とともに、突然、藤の脳を直撃する形でやってきたことばかもしれない。
強烈な光に対抗するには、「思うまま」に自己主張する存在に対抗するには「地獄」しかないかもしれない。けれど、ここでの「地獄」は存在になりきれていない。観念に終わっている。それはたぶん動きがないからだ。1行目の「とどまれ」と「高く」の拮抗した力、2行目の「思うままに」と「飛散する」の、激しい焼尽。水(海・波)なのに、燃え上がる感覚。それに対して3行目は「おく」「かさなる」「ためらわれる」。動きが停滞する。1行目の「とどまれ」は「とどまれ」と言うしかないくらい激しい動きを感じさせるのに、3行目では「動け」と命じても動きそうもないものばかりである。これは、1、2行目の対比になっていない。1、2行目の激しい動きについていけずに失速したのである。4行目の「鳴き止んだ」は象徴的だ。1、2行目に、ついていくことができないのである。
1行空白をおいて、藤は再出発する。抒情に頼りはじめる。「余白の風景」「拒む」「孤独」。それらのことばは、最初の2行につりあっているとは私には感じられない。
「乾いた」「激情」「遠い」「墜ちる」。そうしたことばも、すべて「抒情」「抒情」と、後退してゆく何かにすがっているように感じられる。最初の2行についていっていない。
詩を生み出すのは、とてつもないインスピレーションである。そのインスピレーションをことばそののものとして定着させるのはむずかしい。定着させたらさせたで、それについてゆくのもむずかしい。
この藤の作品は、あまりにも強烈な2行を、書いたというより、ことばそのものの力によって書かされてしまったために、幸福と不幸が混じり合ってしまっている。そんな感じがする。なぜ、こんなに強烈な2行が藤を襲ったのだろう。襲われた藤自身がためらっている。藤自身がなじんでいる透明な抒情へ引き返したがって、苦悩している。
*
(鳥)----「あとがき」にかえて、という作品。その最初の4行
この4行目が私は好きだ。 「どこを眺めているか」と外から鳥を描写したあと「用心している」と1字あきのあとに、突然鳥の内部に入り込んでしまう。外的動作から内的動作へのすばやい転換。その瞬間の、藤自身の鳥への変化。一体化。
--抒情とは、「私」と「私でないもの」が溶け合い、ひとつのこころ、「私」のものでも、「私以外の何か(たとえば鳥)」のものでもない、たとえて言えば、その二つの存在の間にある「空気」のようなものにあることが納得できる。
藤は、存在と存在のあいだの「空気」を描く詩人なのだと思い出す。このあとがきには藤の基本的な思想の動きがくっきり出ている。
書き出しの2行が強烈である。
炎天にとどまれよと声が高くしたとき
断崖下の青い海原は思うままに波が飛散する
真夏の、真っ白な光。真っ白を通り越した透明な光。太陽は真上にあり、空中の不純物をすべて燃焼させてしまって、空中には「純粋」しか残っていない。「とどまれよ」という声は時間そのものを止めてしまう。「高く」ということばに誘われて、太陽はどこまでもどこまでも高くのぼる。照らせない地上がないくらいに高く高く、どこまでも高くのぼっていく。その垂直の上昇。
そこから「断崖下」という垂直の落下。ここには、激しい「対立」の衝突がある。存在は、あらゆる存在はみな互いに反対方向へ動き、衝突し、燃え上がる光になる。
海はどこまでも青く、「思うままに」波は暴れる。激しい自己主張。その衝突。
空気の透明さ、光の白さに歯向かうように、波が白く飛散する。
めまいがしそうなくらい強烈な光だ。
ここから、ことばはどんなふうに動いてゆくことができるだろうか。藤自身も、2行の強烈さにとまどってしまっているようだ。自分で書いたというより、夏の強烈な光とともに、突然、藤の脳を直撃する形でやってきたことばかもしれない。
喉のおくの悲鳴にかさなってためらわれる地獄の声
さっきまで歌っていた鳥たちの歌はなぜ鳴き止んだのだろう
強烈な光に対抗するには、「思うまま」に自己主張する存在に対抗するには「地獄」しかないかもしれない。けれど、ここでの「地獄」は存在になりきれていない。観念に終わっている。それはたぶん動きがないからだ。1行目の「とどまれ」と「高く」の拮抗した力、2行目の「思うままに」と「飛散する」の、激しい焼尽。水(海・波)なのに、燃え上がる感覚。それに対して3行目は「おく」「かさなる」「ためらわれる」。動きが停滞する。1行目の「とどまれ」は「とどまれ」と言うしかないくらい激しい動きを感じさせるのに、3行目では「動け」と命じても動きそうもないものばかりである。これは、1、2行目の対比になっていない。1、2行目の激しい動きについていけずに失速したのである。4行目の「鳴き止んだ」は象徴的だ。1、2行目に、ついていくことができないのである。
炎天にとどまれよと声が高くしたとき
断崖下の青い海原は思うままに波が飛散する
喉のおくの悲鳴にかさなってためらわれる地獄の声
さっきまで歌っていた鳥たちの歌はなぜ鳴き止んだのだろう
島の樹海のなかのただ一本の長い道
ときおり断崖の崖の下の火柱
病んだ鳥だった
余白の風景を拒むだけの孤独の鳥
乾いた激情の遠い過去から墜ちていく
1行空白をおいて、藤は再出発する。抒情に頼りはじめる。「余白の風景」「拒む」「孤独」。それらのことばは、最初の2行につりあっているとは私には感じられない。
「乾いた」「激情」「遠い」「墜ちる」。そうしたことばも、すべて「抒情」「抒情」と、後退してゆく何かにすがっているように感じられる。最初の2行についていっていない。
詩を生み出すのは、とてつもないインスピレーションである。そのインスピレーションをことばそののものとして定着させるのはむずかしい。定着させたらさせたで、それについてゆくのもむずかしい。
この藤の作品は、あまりにも強烈な2行を、書いたというより、ことばそのものの力によって書かされてしまったために、幸福と不幸が混じり合ってしまっている。そんな感じがする。なぜ、こんなに強烈な2行が藤を襲ったのだろう。襲われた藤自身がためらっている。藤自身がなじんでいる透明な抒情へ引き返したがって、苦悩している。
*
(鳥)----「あとがき」にかえて、という作品。その最初の4行
せかいが空虚になったとき
鳥たちが
いちどきに木をおりて
どこを眺めているのか 用心している
この4行目が私は好きだ。 「どこを眺めているか」と外から鳥を描写したあと「用心している」と1字あきのあとに、突然鳥の内部に入り込んでしまう。外的動作から内的動作へのすばやい転換。その瞬間の、藤自身の鳥への変化。一体化。
--抒情とは、「私」と「私でないもの」が溶け合い、ひとつのこころ、「私」のものでも、「私以外の何か(たとえば鳥)」のものでもない、たとえて言えば、その二つの存在の間にある「空気」のようなものにあることが納得できる。
藤は、存在と存在のあいだの「空気」を描く詩人なのだと思い出す。このあとがきには藤の基本的な思想の動きがくっきり出ている。