詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本泰生『声』

2007-10-11 10:37:17 | 詩集
 山本泰生『声』(コールサック社、2007年09月30日発行)
 「卓」という短い詩がある。とても驚いた。

ひと 一皿一皿の人生がある
ちょっとちがう生 だれも知らないちょっと なに味

 「なに味」。ことばが見当たらず、それでもいいたいことがあって「なに味」としか書くことができなかったのだろう。
 普通は「なに味」とは書かないだろう。「なに味」の「なに」のかわりのことばが見つかったとき、それを詩として読者に差し出す。その「なに」がみつからない。「なに」がどこからか降ってくる(インスピレーションお襲われる)のを待っていられない--というのが山本の気持ちなのだろう。
 せっかちなのだろうか。
 そうではなくて、詩を書こうという意思が強いのだろう。なんとしてもことばを書きたい。なんとしても詩を形にしたい。そういう強い意思が「なに味」の「なに」ということばを引き出したのだと思う。
 「なに」としか書けないもの--それが山本を動かしている。「なに」で書きたかったものはなんだろうか。
 「耳」という作品が、その「なに」について語っているかもしれない。

耳は聞く
しずかな ざわめき うなり しぶき
天空の時の刻み 透明の矢の飛び
聞こえないくらいの声
というより生命以前の声
響き 底流している
しいん しいん ぎうん ぎゅううん

 「なに」は「生命以前の」であるか。生命以前のものを山本は追い求め、詩にしたいと願っているのだろう。
 と、書いてもいいのだろうけれど、私は、そんなふうには考えない。そういう「意味」でくくってしまうと、「なに」を「なに」と書いてしまった山本の「思想」が見えて来ない。山本の独自性が見えて来ない感じがする。
 「なに」に通じるのは「というより」ということばである。
 山本の詩にはいたるところに「というより」が隠されている。ひそんでいる。うごめいている。「というより」を補って読むと、山本の世界がよくわかる。

耳は聞く
しずかな(というより)ざわめき(というより)うなり(というより)しぶき
(略)
しいん(というより)しいん(というより)ぎうん(というより)ぎゅううん

 書いたことば、ひとつのインスピレーションに満足せず、その向こうにある「なに」かを追い求めて、「というより」を繰り返し繰り返し迫っていく意思。それが山本の「思想」なのである。生き方なのである。
 「しいん(というより)しいん」では「というより」が機能していないではないかという指摘があるかもしれないが、機能していないからこそ、繰り返すのである。きのうさせようとして繰り返すのである。
 そして、その「というより」は

聞こえないくらいの声
というより生命以前の声

 という書き方に特徴的にあらわれているが、「改行」を含んでいる。「一呼吸」を含んでいる。散文の、うねりながら進む「というより」ではなく、一種の飛躍がある。あるところまで「なに」を追い求めてきて、つかみとれそうになってつかみとれない。そのあと、「一呼吸」おいて、もう一度追い求めはじめる。その繰り返しの出発点としての「というより」なのである。
 「しずかな ざわめき うなり しぶき」という「1字あき」も「一呼吸」である。つづけて一気に読んではいけない。「一呼吸」おきながら、ひとつひとつことばを追いかける。そうすると山本の「呼吸」(生き方)に読者の「呼吸」が重なり合う。山本が見えてくるはずである。
 この「というより」は「卓」にも隠れた形で存在する。

ひと 一皿一皿の人生がある
(というより)ちょっとちがう生(というより)だれも知らないちょっと(というより、というより、というより、というより……)なに味

 「なに」の前には「というより」がびっしりとつまっていて、それが「なに」を飲み込んでしまっている。「なに」と書かざるをえなかった山本が、そのとき見えてくるはずである。
 「なに味」を「生命以前の味」と書いてしまうと、「意味」見えてくるかもしれないが、山本の「呼吸」は消えてしまう。ひとの「思想」は「意味」のなかにあるのではなく、「呼吸」のなかにある。そして、やまもとの「呼吸」は「というより」という一拍のおきかたにある。飛躍を含みながらの「というより」にある。

コメント (1)
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