三井喬子『紅の小箱』(思潮社、2007年10月31日発行)
三井の詩は「物語」を必要としている。「物語」が思いつかないとき、そのことがより明確に浮かび上がる。たとえば「その向こう と」
4連目の第1行。「物語」ということばが出てくるが、これはその前の3連では「物語」まだ生まれていないという意識が三井にあるからだ。そしてこの「物語」は三井の「物語」ではない。三井は詩のなかで自分の「物語」を語るわけではない。私小説・私詩、「自分史」という「物語」とは違うものを語る。「物語」とは三井にとっては、三井と読者が同じ時間を生きるための枠組みである。三井と、たとえば私は同じ2007年を生きているけれど、そういう時間は「枠組み」とはならないのだ。三井の場合は。架空の時間、架空の場所に、架空の人物が動く--そのときの時間の枠組みを三井は「物語」と読んでいるように思える。その枠組みが完全にできあがらないときは、「物語」ということばで、「これは物語ですよ」と読者にむけて、特別な時間の共有を迫る。ここでも同じである。「物語」という時間がある、ということを知らせて、ことばを動かしている。
そして「物語」は架空であるけれど、そこに動いている感覚・精神は架空ではない、というのが三井の詩の特徴であると思う。だれでももちろん「物語」の細部は自分自身の感覚で埋めるしかないのだが、三井はとりわけ、そういうことにこころを砕いている。架空の「物語」という時間、そのなかで三井自身の感覚を繰り広げる。そのとき、三井の感覚、その変化そのものが「物語」にとってかわる。最初は「物語」といういわばストーリー(女と男がいて、女が木を指差し、男が列車に乗ってどこかへ行く)を必要とするが、それができてしまうと、「物語」は結論(エンディング)をめざして進むわけではない。「物語」ができると、ことばはそこで立ち止まり、ひたすら「物語」から逸脱することをめざす。そこにとどまり、感覚そのものになろうとする。
5連目はつぎのようにつづく。
「でしょう そうでしょう」。この、「その」を省略した口語の感覚。「かすか」な「苔の匂い」の嗅覚。ここに書かれているものは「物語」とは関係がない。関係がないぶぶんにこそ三井の生きてきた「時間」(自分史)というものが噴出する。
自分の感覚、生きてうごめく感覚と、その奥にある三井自身の感覚の歴史(積み重ね)は「物語」がないと出てこない。「物語」を引き止め、それが結論へ突き進まないようにするために、つまり詩であることを願って、そこで自己主張する。それが三井の詩である。
「物語」と三井自身の感覚のことを三井がどう考えているかよくわからないが、もっと自覚的に書くと、ことばは劇的に変化するかもしれないと感じた。
たとえば巻頭の「牡丹」の「物語」の導入の2連は、まるで泉鏡花みたいで、あ、これが金沢の風土かな、などと思いながら読んでいると、本当に泉鏡花になってしまって……。
という展開など、とてもおもしろい。「物語」のなかで時間は過去-現在-未来へと動くことをやめて、現在がそのままずぶずぶ深くなり、深くなったときに、過去と未来が溶け合って現在がだらりと崩れる。三井の積み重ねてきた「自分史」の時間が崩壊し、肉体が剥き出しになる。そこが非常におもしろいのに、
と終わってしまうと、せっかくいきいきと動いた三井の感覚が、また「物語」に閉じ込められてしまう。「物語」はあくまで感覚を解放するための手段という意識があいまいで、「物語」が消えてしまうと「作品」にならないと心配なのかもしれない。「結末」を捨ててしまえばいいのだと思う。
三井の詩は「物語」を必要としている。「物語」が思いつかないとき、そのことがより明確に浮かび上がる。たとえば「その向こう と」
その向こう
と 女が指差したそこに
一本の木が生え。
傘を傾けた男が小走りに行き
紅殻格子に灯が点り
野良猫が軒端に跨がり。
一本の木の下に物語が生まれるころ
男はもう列車の窓際の席で夕刊を広げている。
お腹はいっぱいだから 煙草を吸うかも知れない。
今発ってきた駅の 街の 風景などは忘れてしまった。
4連目の第1行。「物語」ということばが出てくるが、これはその前の3連では「物語」まだ生まれていないという意識が三井にあるからだ。そしてこの「物語」は三井の「物語」ではない。三井は詩のなかで自分の「物語」を語るわけではない。私小説・私詩、「自分史」という「物語」とは違うものを語る。「物語」とは三井にとっては、三井と読者が同じ時間を生きるための枠組みである。三井と、たとえば私は同じ2007年を生きているけれど、そういう時間は「枠組み」とはならないのだ。三井の場合は。架空の時間、架空の場所に、架空の人物が動く--そのときの時間の枠組みを三井は「物語」と読んでいるように思える。その枠組みが完全にできあがらないときは、「物語」ということばで、「これは物語ですよ」と読者にむけて、特別な時間の共有を迫る。ここでも同じである。「物語」という時間がある、ということを知らせて、ことばを動かしている。
そして「物語」は架空であるけれど、そこに動いている感覚・精神は架空ではない、というのが三井の詩の特徴であると思う。だれでももちろん「物語」の細部は自分自身の感覚で埋めるしかないのだが、三井はとりわけ、そういうことにこころを砕いている。架空の「物語」という時間、そのなかで三井自身の感覚を繰り広げる。そのとき、三井の感覚、その変化そのものが「物語」にとってかわる。最初は「物語」といういわばストーリー(女と男がいて、女が木を指差し、男が列車に乗ってどこかへ行く)を必要とするが、それができてしまうと、「物語」は結論(エンディング)をめざして進むわけではない。「物語」ができると、ことばはそこで立ち止まり、ひたすら「物語」から逸脱することをめざす。そこにとどまり、感覚そのものになろうとする。
5連目はつぎのようにつづく。
でしょう そうでしょう
と言い募っても 戦争のニュースには適わないから
創世記から 地球の裏側の現在までを語り続けて
一本の木が枯れる。
その向こうに彷徨う湖の記憶が
かすかに苔の匂いを発し
猫も眠れない。
「でしょう そうでしょう」。この、「その」を省略した口語の感覚。「かすか」な「苔の匂い」の嗅覚。ここに書かれているものは「物語」とは関係がない。関係がないぶぶんにこそ三井の生きてきた「時間」(自分史)というものが噴出する。
自分の感覚、生きてうごめく感覚と、その奥にある三井自身の感覚の歴史(積み重ね)は「物語」がないと出てこない。「物語」を引き止め、それが結論へ突き進まないようにするために、つまり詩であることを願って、そこで自己主張する。それが三井の詩である。
「物語」と三井自身の感覚のことを三井がどう考えているかよくわからないが、もっと自覚的に書くと、ことばは劇的に変化するかもしれないと感じた。
たとえば巻頭の「牡丹」の「物語」の導入の2連は、まるで泉鏡花みたいで、あ、これが金沢の風土かな、などと思いながら読んでいると、本当に泉鏡花になってしまって……。
瓜をたべたい 蜜のしたたる白い瓜。
背中もたべたい
耳もたべたい
喉の奥の
魂なんぞもたべてみたい。
ふ
ふ ふ ふ
という展開など、とてもおもしろい。「物語」のなかで時間は過去-現在-未来へと動くことをやめて、現在がそのままずぶずぶ深くなり、深くなったときに、過去と未来が溶け合って現在がだらりと崩れる。三井の積み重ねてきた「自分史」の時間が崩壊し、肉体が剥き出しになる。そこが非常におもしろいのに、
くちびるを
湿らせて
無明の指が紅をさす
ほうっ
と 頬に刀傷。
と終わってしまうと、せっかくいきいきと動いた三井の感覚が、また「物語」に閉じ込められてしまう。「物語」はあくまで感覚を解放するための手段という意識があいまいで、「物語」が消えてしまうと「作品」にならないと心配なのかもしれない。「結末」を捨ててしまえばいいのだと思う。