詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを『しましまの』(2)

2007-10-17 10:12:43 | 詩集
岩佐なをしましまの』(思潮社、2007年10月01日)
 岩佐なをの詩は私は大嫌いだった。いまでも好きかといわれると大嫌いと答えるしかないのだが、とてもおもしろい。そしてこのおもしろさはちょっと説明がしにくい。大嫌いの理由と同じように、非常に説明がしにくい。これは、ようするに「名人芸」というしかないのである。天沢退二郎、粒来哲蔵のことばの動きを「名人芸」と私は感じるが、同じように岩佐のことばの動きも「名人芸」になってきたのである。(昔からそうだったのかもしれないが……。)詩の「内容」とか「意味」とかは関係がない。ことばのていねいさが「名人芸」なのである。そして、そのていねいさというのは、いわゆる緻密さ、繊細さとはまた別のことなのである。
 「「人参考」手控」という詩の半分よりすこし前の部分、というより、これから山場へ昇っていくという感じの、歌謡曲でいうと「さわり」へ向かう部分。(「さわり」そのものではないよ。)

からだを丹念に拭ってやって
床に寝かせてながめていると
表と裏がわかってきたものだ
雄と雌の
表と裏ひげ根ぴろぴろ
見な。
<仰向けの姿勢>
<伏したる様子>

 「見な。」
 この行がすごい。句点「。」つきの1行。いかにも、これからいやらしくなるぞ、ほら、いやらしいことを想像しはじめているだろう、と誘っておいて、突然描写をやめて「見な。」と読者に肉眼に戻ることをもとめる。見るのは私(岩佐)じゃないよ、あんただよ、と、後ろに隠れてみていたのに、最前列へいきなりひっぱりだす感じ。余分なことは何も言わない。だだ「見な。」
 それも句点「。」つきである。この句点「。」の効果は、またまた、すごい。
 「見な。」とひっぱりだされて、その瞬間、読者は一瞬ひるむな。見たいんだけれど、そして実際に見えるんだけれど、ひるむ。ひるんだ瞬間、息を飲む。そういう人間の呼吸の動きを、岩佐はていねいに描いている。
 句点「。」のかわりに、その一呼吸を「1行あき」で表現するという方法もあるけれど、「1行あき」では、息を飲む呼吸の動きが間延びしてしまう。一呼吸あるんだけれど「1行あき」というほどでもない。その微妙さを、岩佐はていねいに描いている。
 一呼吸おいて、

<仰向けの姿勢>
<伏したる様子>

 この<>つきの転換もいいなあ。
 歌謡曲でいうなら「さび」に入ったぞ、ということを明確にする音質の変化だねえ。誘われるままに、ことばのあとについていってしまうしかない。

体毛を摘んで抜いてやったり
あらためて霧吹で水をあびせたり
うしろからうしろから雄人参を
責めたてたり
朝鮮人人参くすり(シロ系)
西洋人人参やさい(アカ系)
日本人人参どうぐ(エロ系)
だからどうした。

 「さび」が最高潮に達して、それから「だからどうした。」一気に、最初にもどる。何もなかったかのように。ここでも句点「。」が効果的だ。
 この句点「。」は、もう一度、最後の部分に出てくるが、その部分も、ほんとうにうっとりしてしまう。こんな呼吸のつかいわけをされてしまったら、あとから書くひとが困るじゃないか、というしかない「名人芸」である。

 どんなものにも、使い込んだものには「つや」がある。輝きではなく、しっとりとした「つや」、肉体を感じさせる何かがある。岩佐のことばにも「つや」がある。その「つや」は呼吸の「つや」である。そして、その「つや」は「見な。」という1行に特徴的にあらわれているが、「独唱」の「つや」ではない。常に他者が存在するときに効果のある「つや」である。だからこそ、よけいに「名人芸」という感じがするのだと思う。「名人」というのは自分自身の技をかってに独立させるのではなく、常に他者をまきこみながら「場」をつくりあげる人間のことだ。

コメント
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