詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

辻和人「本当にあったこと」

2007-10-25 11:36:03 | 詩(雑誌・同人誌)
 辻和人「本当にあったこと」(「モーアシビ」11、2007年10月20日発行)
 スーパーでから揚げを買おうとしていて、おばさんに突然手をつかまれる。もうすぐ半額になるからしばらく待ちなさい、というのだ。

ぼーっとしていたぼくの姿は
おばさんの視覚システムを刺激した
標的として認識されると
おばさんの中で「親切心」がムクムクと起動し
鋭い切っ先を持つグニャグニャに成長する
にわかに「手」の形を取ると
一気に攻撃をしかけてきた、ということ

 おもしろいなあ。どんなことでもことばにしてしまえば、そしてそのことばがいままでに書かれたことばでなかったなら、それは「詩」なのである。ことばが初めて動いた領域--そこに「詩」がある。「心」が「手」に変わるまでの想像力(事実をゆがめて表現してしまう力、という定義がぴったりだね)がおもしろい。
 この詩はさらにつづく。

暗闇の中で徐々に準備されたその成長の過程に
ぼくは気づくことができなかった
もしも、もしもだよ
ぼくが来世、熱帯の昆虫に生まれ変わったとしたら
カメレオンに狙われて
その舌に巻き込まれる瞬間
あっ、この感触覚えがある、と
みるみる狭くなっていく知覚の野のどこかで
ぼーっと考えたことだろう

 ギアが切り替わって、一段スピードアップした感じだ。おもしろいなあ。「おばさんの手」をカメレオンの舌と直接的に言わず、ギアを切り換えてしまうところがいいなあ。
 最後の連、5行は、しかしいらないね。せっかくカメレオンでおもしろくなったのに、「恐い」(こわい、と読むのかな? おそろしい、と読むのかな?)と念押しされると、こわくなくなる。辻の想像力の「怖さ」が消えてしまう。



 泥3C(デイドロ・ドロシー)が同じ「モーアシビ」に「書いてみる とにかく何か」を書いている。

 とにかく書いてみる書いてみたい書かずにはいられない書いていないと不安がつのるどうしようもなく落ち着かなくなるから書いている。

 という感じで、あてもなく、ただ書きつらねている。この、一体何がはじまるかわからないまま書くことの繰り返しの果てに、辻の「カメレオン」の発想があるのだと思う。
 書くことで何かを捨て、何かをつかむ。それまでは、書くしかない。詩は、特別な場所にあるのではなく、いま、ここにあるのだが、それをあらわすことばが死んでいるだけなのだ。
コメント
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