詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓「ニック・ニーサーに出会った場所」

2007-10-07 09:47:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 永島卓「ニック・ニーサーに出会った場所」(「詩歌句」終刊号、2007年秋)
 「ニック・ニューサー」が何ものなのか私は知らない。作家か、画家か。何人か。何語をしゃべるのか。だから、私の感想はとんちんかんかもしれない。しかし、もともと私は詩のタイトルと本文をあまりひきつけて考えたことがないので、「ニック・ニーサー」が、もしかしたら車の名前とか、植物の名前であっても、同じ感想を書くだろうと思う。(車も、植物、草花も、私はほとんど知らない。)
 1連目。

 なぜって言われても、此処に立っているのは、ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、風まかせの梯子が、どちらに倒れてゆくのか見定めてゆく場所。

 何が書いてあるのか。「ニック・ニーサー」同様、私にはわからない。「此処」とはどこなのかも見当もつかない。ニック・ニーサーに出会った場所? どうもちがうような気がする。そして、「此処」がどこであるかさっぱりわからないのに、それがどこであるかがわかると感じてしまうのだ。
 「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」--そう書かれているとおりに、「此処」に立てば、「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて」いくのが実感できる場所なのだ。都会というよりも、ちょっといなかっぽい街。家の屋根は低く、空が広い。風が音を立てながら吹き渡るとき、空がそれを追いかけるように動いてゆく。のびてゆく。「ぼおおーんぼおおーん」は風の音であるより、空が伸びるときの音である。そういうものをはっきりと感じる。

 そして、その「空は伸びて、」ということよりもさらにさらに感じるものがある。なまなましく迫ってくるものがある。「伸びて、」と中断したまま、何かとつながろうとすることばのなかの、連続性、粘着性に永島自身を感じてしまうのである。(私は永島は面識がなく、実際にはどういう人間か知らないといえば知らないのだが。)

 「空は太く伸びて」とはどういうこと?
 私は適当なことを書いたけれど、実は、よくわからない。多くの読者もわからないと思う。そして、実は、永島にもよくはわからない、他人にきちんと説明できるようにはわからないのだと思う。「ほら、風が吹くとき、空が伸びるじゃないか」と同じことを繰り返すだけかもしれない。それはたぶん、「わかる」ことではなく、「思う」ことなのだ。「感じる」とも違って、たぶん「思う」ことなのである。
 その「思う」ことのなかに、私は永島をリアルに感じてしまうのである。

 「思う」というのは自分のなかにある何かを外へひっぱりだそうとする意思なのである。(「意思」のなかに「思う」が含まれているけれど。)永島は、何かをひっぱりだしたい。けれどもひっぱりだしきれていない。ことばは、「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」と、そこまでは動いたけれど、そこから先へ動かない。中断する。「空は太く伸びて、」それから「空は」何をしたのか。「動詞」がない。何もできずに、そこで中途半端に、別なものにずれてしまう。ずれるとわかっていても、なんとか、「伸びて、」をつなげたい、連続させたい。「伸びて、」とつなげようとしてつならがらないものの「間(ま)」に、ほんとうのいいたいことがあるだ。
 つなげようとして、つながらない。それでもつなげてしまう。「宙ぶらりんの中断」(たとえば、「伸びて」)をかかえたまま、何かとつながってしまう。その瞬間の、あ、こんなことをほんとうは「思いたくはなかったのに」、なぜほんとうに「思っている」ことを思えないのか、ともどかしくなる。
 そういうもどかしさが、この詩のいたるところに出てくる。
 各連の終わり。「優しく澄みきって。」「錆びてしまい。」「はいってしまっていて。」「ならなくなって。」というような中途半端な終わり方をしている連がいくつもある。で、そのつづきは? つづきはどうなったの? 
 述語がない。
 述語は、実は永島の「思う」のなかにはある。「文法」的には述語はないが、永島の「思う」のなかには、ことばにならないまま存在し、うごめいている。
 彼が思っていることのなかでは、すべて述語があるけれど、それを現実に「流通」する形に整えることができない。「文法」的にととのえることができないので、そのままにして、それになんとかつながるように、もう一度「思う」ことを思いなおす。「思う」をはじめる。繰り返し繰り返し「思う」をはじめる。
 それがつづく。そして、終わりがない。「思う」には終わりなどないのである。それが「伸びて、」という形に象徴的にあらわれている。

 「詩歌句」は今号で終わりになる。永島は、そう書いている。しかし、「詩歌句」が終わっても、永島が「思う」ことは終わらない。ことばは「思う」がひっぱりだそうとしたものを思い続け、動き続けるだろう。
 そういうことを感じさせる。

 私は永島の詩をそんなに熱心に読んできた読者ではないのだけれど、「ひとみさんこらえるということは」にも、その文体に、何か、語りきれないものをことばでひっぱりだそうとしている「思い」を感じる。
 文法には反してしまうが、文法的に乱れた形でしか伝えられない何かがある。人間と人間のつながりのなかに、文法を乱すことでつながっていくものがある。それをなんとかことばとして残しておきたいといった感じの「思い」を感じる。
 たとえば「ひとみさんこらえるということは」という文章なら、普通は「ひとみさん、こらえるということは」と読点「、」を入れて書くが永島は読点なしに書く。そのとき、その読点「、」のかわりに何が存在しているのか。読点「、」を省くことで何が存在してしまうのか。--そこには、たぶん、「ひとみさん、ひとみさんがこらえるということは」「ひとみさん、ひとがこらえるということは」という文が重なっているのだ。「ひとみさん」と「ひと」が、つまり個人と一般名詞(普遍)が瞬間的に重なり合い、読点「、」が消えるのである。永島は、ひとみさんだけに語りかけたい。しかし、そこにはひとみさんのことと、ひとのことが重なり合う。そして、ひとにはもちろん永島も重なり合う。そういう重なりあいのなかで、「思い」というものは揺れるのだ。頭では割り切れない。「文法」には収まり切れないものが出てくるのだ。そういうものを「思う」、思い続ける。そして、なんとかことばにできるものはことばにする。
 その、苦しい苦しい、「思う」ことの粘着性が、たとえば読点「、」を消してしまい、たとえば「空は太く伸びて、」というどこかへつながろうとする意識となって、そのまま、完結せずにそこに立ち現れてくる。

 詩でも小説でも何でもいいのだが、そこに書かれている「内容」ではなく、それを書くときの「文体」の方に、ほんとうは「思想」がある。そのひとの肉体となっていることばの運動の基本がある。ゆずれないものがある。
 永島の場合は、連続性、連続のための粘着性がそれにあたると思う。
 永島は「詩歌句」を終刊するようだが、ことばの運動、その思いの連続性、粘着力のあることばは、まだまだつづくはずである。


コメント
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