森山恵『エフェメール』(ふらんす堂、2007年10月15日発行)
「雨」という作品にひかれた。
一瞬、大岡信の「さわる」を思いだした。特に「どこまでも見つめ 耳を澄ませたか/あらゆる匂いを吸い尽くしたか」と視覚、聴覚、嗅覚を動員する部分は、あらゆる感覚がどこかでつながっているという大岡の触覚論と似ている。
しかし、大岡の詩とはまったく違った部分がある。
「本当に」「すべて」「どこまでも」「あらゆる」「尽くす」ということばが繰り返される。「徹底的に」ということばが2連2行目に孤立して置かれているが、「徹底的に」という思いが非常に強く、それが「本当に」などのことばを繰り返させるのだろう。そこには何か苛立ちのようなものがある。
そこに私はひかれた。
ことばにこめられた苛立ちに。
なぜ苛立つのか。その理由は、引用した部分の最終行にある。「触れもしないで思っているのではないだろうか」。「思う」ことが先行しているのである。何かに対して「思う」。そしてその「思い」を書こうとしている。
どの作品を読んでもそう感じるのだが、森山は、「思っている」ことを書いている。そんな感じがする。
文学は「思っている」ことを書くもの、「思っている」ことを書いて何が悪いのだ、なぜ批判されなければならないのか、と反論されそうだが、私は「思っている」ことを書くのが文学だとは信じていない。私は「これこれと思っている」と客観視して言えることをことばにするのが文学だとは信じていない。
むしろ「思っていない」ことを書くのが文学である。
「思っていない」にもかかわらず、ことばが「思い」を作り上げていく。ことばが「思う」ことをつくりあげてしってしまい、人間があとからついて行くしかないことを書くのが文学である、と信じている。
大岡の詩「さわる」を読むと感じるのだが、大岡は、本当はそんなことなど書きたくなかった--というと言い過ぎだが、ことばがそんなふうに動いていくという予測もないままに書き出している。ことばに書かされている。知らない間に、思いもかけず、ことばが動いていって作品になってしまっている。
そういうスピード感がある。
このスピード感は「思っていない」からこそ実現できるものである。ことばの「至福」は「思っていない」からこそ、かってに実現してしまうのだ。かってに大岡にやってきて、かってに大岡をつつみこんでしまう。そして、読者は、そのわけのわからない「至福」に巻き込まれる。大岡と一緒に、ことばの運動に巻き込まれ、酩酊する。その結果、「思っている」こととはぜんぜん違うことを「思わされる」。「思っていない」ことに出会って、驚く。
森山の作品には、そういう「思っている」こととはぜんぜん違ったこと、「思ってもいないこと」が書かれていない。
苛立ちは「思っている」ことしか書けない、という苛立ちである。「思っている」ことを超えて、「思っていない」ことにたどりつけない苛立ちである。
森山は、どうしても「思っている」ことばかり書いてしまうのである。
たとえば「蝶の翅」。
この書き出しに、読者が「思っていない」ことが書かれているだろうか。明るい光の中を飛んで行く蝶。それは真珠のように美しい。急ぐことはなく、傷つくこともなく、ゆらゆら。時間を楽しんでいる。まるで真昼の夢だ。
2連目以降、それが実際に「夢」であり、本当は「死」を背負っていることが描かれるが、その「死」さえ、美しさの対極にあるものとして、読者はすでに「思っている」。「思ってい」ながら、森山の「思っている」ことに従っている。「思いもかけないこと」ではなく、「思っている」ことを確認しながらことばを読んでいる。
こんなふうに、いわば森山の詩を批判しながら、それでも「雨」にひかれたと私が書くのは、実は、問題の行の「思っている」ということばゆえである。
「思っている」という自覚が森山にはある。そこからはじまる詩があるはずである。「思っている」ということを深く見つめて行く。
たとえば「壁画」の次の2行。
これは「思っている」ことをつきつめて「思う」ことによってたどりつく世界である。「思っている」ことを「思い」、それを論理構造として定着させる--そういう運動が森山のことばには適しているのではないだろうか。そういうことをする詩人ではないのだろうか、と思った。
*
この詩集には岩成達也の解説(?)しおりがついている。岩成が森山を高く評価しているのは、そこに岩成との共通点があるからだろう。「思っている」ことを「思い」、その「思っている」ことを「思う」という関係をことばで追って行く、「思っている」ことを「思う」とはどういうことかを追い詰めるときの感覚を、岩成は森山に感じているのだと思う。
「雨」という作品にひかれた。
ものに触れたことがあるだろうか
たとえば雨に
本当に雨に触れたことがあるだろうか
徹底的に
雨が含んでいるすべてのものにすべての感覚で
本当に触れたことがあるだろうか
雨の中の一本の木のように立ち尽くして
本当に深く味わい尽くしたか
どこまでも見つめ 耳を澄ませたか
あらゆる匂いを吸い尽くしたか
あらゆる感覚を肌に刻んだか
雨は私が思っている雨だったろうか
昨日の雨と今日の雨は同じだろうか
同じに変わりなく空から落ちてくる水滴だろうか
触れもしないで思っているのではないだろうか
一瞬、大岡信の「さわる」を思いだした。特に「どこまでも見つめ 耳を澄ませたか/あらゆる匂いを吸い尽くしたか」と視覚、聴覚、嗅覚を動員する部分は、あらゆる感覚がどこかでつながっているという大岡の触覚論と似ている。
しかし、大岡の詩とはまったく違った部分がある。
「本当に」「すべて」「どこまでも」「あらゆる」「尽くす」ということばが繰り返される。「徹底的に」ということばが2連2行目に孤立して置かれているが、「徹底的に」という思いが非常に強く、それが「本当に」などのことばを繰り返させるのだろう。そこには何か苛立ちのようなものがある。
そこに私はひかれた。
ことばにこめられた苛立ちに。
なぜ苛立つのか。その理由は、引用した部分の最終行にある。「触れもしないで思っているのではないだろうか」。「思う」ことが先行しているのである。何かに対して「思う」。そしてその「思い」を書こうとしている。
どの作品を読んでもそう感じるのだが、森山は、「思っている」ことを書いている。そんな感じがする。
文学は「思っている」ことを書くもの、「思っている」ことを書いて何が悪いのだ、なぜ批判されなければならないのか、と反論されそうだが、私は「思っている」ことを書くのが文学だとは信じていない。私は「これこれと思っている」と客観視して言えることをことばにするのが文学だとは信じていない。
むしろ「思っていない」ことを書くのが文学である。
「思っていない」にもかかわらず、ことばが「思い」を作り上げていく。ことばが「思う」ことをつくりあげてしってしまい、人間があとからついて行くしかないことを書くのが文学である、と信じている。
大岡の詩「さわる」を読むと感じるのだが、大岡は、本当はそんなことなど書きたくなかった--というと言い過ぎだが、ことばがそんなふうに動いていくという予測もないままに書き出している。ことばに書かされている。知らない間に、思いもかけず、ことばが動いていって作品になってしまっている。
そういうスピード感がある。
このスピード感は「思っていない」からこそ実現できるものである。ことばの「至福」は「思っていない」からこそ、かってに実現してしまうのだ。かってに大岡にやってきて、かってに大岡をつつみこんでしまう。そして、読者は、そのわけのわからない「至福」に巻き込まれる。大岡と一緒に、ことばの運動に巻き込まれ、酩酊する。その結果、「思っている」こととはぜんぜん違うことを「思わされる」。「思っていない」ことに出会って、驚く。
森山の作品には、そういう「思っている」こととはぜんぜん違ったこと、「思ってもいないこと」が書かれていない。
苛立ちは「思っている」ことしか書けない、という苛立ちである。「思っている」ことを超えて、「思っていない」ことにたどりつけない苛立ちである。
森山は、どうしても「思っている」ことばかり書いてしまうのである。
たとえば「蝶の翅」。
束ねられた光の中へ
蝶が流れていく 真珠色の翅を広げて
ゆらゆらと
真昼の夢のように
この書き出しに、読者が「思っていない」ことが書かれているだろうか。明るい光の中を飛んで行く蝶。それは真珠のように美しい。急ぐことはなく、傷つくこともなく、ゆらゆら。時間を楽しんでいる。まるで真昼の夢だ。
2連目以降、それが実際に「夢」であり、本当は「死」を背負っていることが描かれるが、その「死」さえ、美しさの対極にあるものとして、読者はすでに「思っている」。「思ってい」ながら、森山の「思っている」ことに従っている。「思いもかけないこと」ではなく、「思っている」ことを確認しながらことばを読んでいる。
こんなふうに、いわば森山の詩を批判しながら、それでも「雨」にひかれたと私が書くのは、実は、問題の行の「思っている」ということばゆえである。
「思っている」という自覚が森山にはある。そこからはじまる詩があるはずである。「思っている」ということを深く見つめて行く。
たとえば「壁画」の次の2行。
蝋燭が
瞼の奥にある洞窟を照らしたのなら壁画は存在する
これは「思っている」ことをつきつめて「思う」ことによってたどりつく世界である。「思っている」ことを「思い」、それを論理構造として定着させる--そういう運動が森山のことばには適しているのではないだろうか。そういうことをする詩人ではないのだろうか、と思った。
*
この詩集には岩成達也の解説(?)しおりがついている。岩成が森山を高く評価しているのは、そこに岩成との共通点があるからだろう。「思っている」ことを「思い」、その「思っている」ことを「思う」という関係をことばで追って行く、「思っている」ことを「思う」とはどういうことかを追い詰めるときの感覚を、岩成は森山に感じているのだと思う。