詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安藤郁子・柏木麻里展「斥力、遠さにふれる」

2007-10-26 11:59:03 | その他(音楽、小説etc)
 安藤郁子・柏木麻里展「斥力、遠さにふれる」(「斥力、遠さにふれる」編集室、2007年06月27日発行)
 青森市の国際芸術センター青森で2006年03月04日から21日まで開かれた展覧会の記録である。安藤の陶のオブジェと柏木の詩のコラボレーション。私は実際に会場へ行ったわけではないので、その作品の大きさ、詩の文字の大きさなどはよくわからない。光の陰影の感じも、たぶん時間によって違うだろうから、この記録集に関する私の感想は、ほとんど空想である。
 コラボレーションというものを私は試みたことがないのでよくわからないが、異質なものの出会い--その瞬間の「間」が大切なのだと思う。私は人間関係があまり得意ではない。人間関係というのは、ようするに「間」のことである。「間」とは二人の人間の間の「空気」のことである。「空気」が読めない、も「間」の感覚が悪いも、似たような感じのことをあらわすだろう。
 写真では実際の距離(間)が正確にはつかみきれないが、オブジェとことばが接近することはない。また、離れているが、離れていくという感じでもない。接近と離反の、拮抗する力を感じさせる場で、自己主張するというより、互いに他者を受け入れている。そして受け入れることによって、弱さではなく、強さを発揮している。詩は詩の、オブジェはオブジェの強さを発揮している。オブジェを、ことばを、受け入れながら、屹立して他者への向き合い方を確認できるという強さを発揮している。相手の主張のままに受け入れるのではなく、主張を消化し、そうすることで今までことば、オブジェがもたなかったものを獲得しつつ屹立している感じである。
 安藤の作品は床に置かれる一方だが、柏木のことばはあるときは床に置かれ、あるときは壁に掲げられる。そうすることで、ことばは普通はもち得ない「立体感」も獲得していて、これはちょっと不思議な印象である。
 写真で見るかぎり、安藤の垂直の葉っぱ(?)のようなオブジェに対して、壁のことばは

虹のために
空が         ものをおぼえはじめる

と語り、床のことばが

みたことのない 花びら


来たがっている
のに

やわらかな手のひらは
多くを思いすぎて
ひらくことができない

 空と手のひらが「間」をどこで構成するかで主張のあり方を変えている。変えてはいるが、そこには柏木のことばの呼吸はしっかり生きていて、あ、柏木のことばだ、とわかる。「間」はもとより立体的なものだが、こんなふうしに壁や床を利用してことばが展示されると、ことばが作り出しているものが「間」であること、「空気」であることがより鋭敏に伝わってくる。
 実際に会場を歩けば、その立体感覚に時間も加わるだろう。

 詩集で読んだ柏木のことばよりも、写真集で見たことば、オブジェと拮抗して存在することばを見たときの方が、ことばそのものに立体感、「空気」というものがしっかりそなわっているという感じがする。
 柏木は柏木のことばを輝かせ、深い呼吸をさせる方法を知っている。そして、確実にそれを実践している。パフォーマンスしている。

 
コメント
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